旅行・温泉

2009年9月28日 (月)

泥湯温泉(秋田県湯沢市)

栗駒山登山の帰りに寄って入ってきました。泥湯温泉は、ほんとうの山奥、高松岳(1348メートル)の北東麓、小安岳(1292メートル)の中腹の小さな盆地にあります。その名の通り灰白色に濁った熱い温泉である。20数年前までは、湯治専門の宿が数件あるのみで、秋田最南部の秘境と言われていたとのこと 。。。。開湯1000年以上と、かなり歴史のある温泉です。

Cimg6131日本秘湯を守る会会員の宿「奥山旅館」、ここの温泉に入ってきました。内風呂はかなり狭かったのですが、二つある露天風呂は最高でした。

Cimg0575道路を挟んで向かい側にある広い露天風にも入ることができます。こちらは、広々として、ゆったりできていいですよ。(笑)  入浴料500円、もちろん石鹸、シャンプー付き。


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2009年9月21日 (月)

前九年の役 鬼切部古戦場址(鬼切部城址)

宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)高畑。 炎立つ奥州。。。。前九年の役 最初の合戦がこの地で行なわれた。 前九年の役とは、約1000年前、今の岩手県一帯を支配していた俘囚の酋長安倍氏VS大和朝廷軍との戦いである。  国府多賀城を出発した1000を越える朝廷軍とエミシの豪族安倍頼良(あべのよりよし)の軍勢が、ここ鬼切部(おにきりべ)で激突した。。。。安倍頼良の息子である安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)率いる別働隊は、岩手県平泉近くの衣川の柵を出発し、祭畤(まつるべ)→須川経由で早春の栗駒山を越えて、花山(宮城県栗原市)→荒雄岳と進軍し、荒雄岳の山頂から怒涛のごとく朝廷軍に襲いかかった。。。。。これにより大和朝廷軍は、総崩れとなり安倍氏の大勝利に終ったのである。

Cimg6047鬼首(おにこうべ)高畑の高原にある説明板。  安倍貞任、宗任率いる別働隊が栗駒山を越える際、季節はずれの吹雪に見舞われて道を見失ったという。そのとき、白馬に乗ったエミシの英雄アテルイが現れて、鬼切部まで道案内をしたという。。。。本当かなー。。。(笑) 

Cimg6052鬼切部城址の高原。ススキの原野になっていた。正面には、ミニ谷川岳の禿(かむろ)岳が見える。まさに、奥羽山脈と川、沢に囲まれた天然の要害である。

Cimg6056国道108号線にある案内板。 ここから狭い道路をしばらく登ると広々とした標高500メートルの高原にでる。 眺望もよい、清々しい高原である。

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2009年9月13日 (日)

盛岡散歩

先日、所用で盛岡に行ってきました。ついでに、紺屋町にある自家焙煎コーヒー店「クラムボン」でやっていた知人の小さな写真展を見学して、盛岡でも古い建物が多く残る紺屋町界隈を散策してきました。   ちなみに「クラムボン」とは、宮沢賢治の幻想的な童話「やまなし」に登場する蟹?のことである。

Cimg6005岩手公園にある桜田神社のえぼし岩。 城をつくる際に地面を掘ったらでてきたらしい。すごい岩だ。このあたりは古代から聖地であったのかもしれない。南部藩の「お守り石」としていまでも崇拝されているらしい。。。

Cimg6009「ござ九」、地元とでは、ござくさんと呼ばれているそうです。 名前の通り、ござ製品やわら製品、竹製品等を扱っている。江戸時代末期から明治期にかけての建物がそのまんま残されている。 まるで江戸時代にタイムスリップしたようだ。。。。(笑)

Cimg6018中津川に架かる上の橋の「擬宝珠(ぎぼし)」。江戸時代のものである。橋は何度か架け替えられたが、これだけは今も残っている。国の重要美術品に指定されている。でも、なんか無用心である。こんなご時勢、盗まれたりしないのだろうか。。。?(笑)    浅田次郎の小説「壬生義士伝」には、南部藩出身の主人公新撰組隊士吉村が、京都の二条大橋にたたずみ、盛岡にも「擬宝珠」の付いた立派な橋があると 懐かしむシーンがあるという。。。。

Cimg6021中津川沿いにある軽食喫茶店「ふかくさ」。 一瞬なんなんだかよく分からなかった。(笑) 店全体が緑の蔦と木の緑に覆われていて、どこが入り口なんだかもよく分からない状態。。。。いやはや、びっくり 盛岡では、けこう有名な店らしい。。。。(笑)

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2009年8月27日 (木)

智恵子 記念館

福島県二本松市ある「智恵子 記念館」に寄ってきました。 智恵子の愛用品や手紙、絵、療養中に残した紙絵(切り絵)等が展示されている。 記念館隣には、智恵子の生家があり、修復され公開されている。 日本女子大の家政学部に進学した智恵子は西洋画に熱中し、卒業しても故郷には戻らず画家を目指したのである。 デザイナーでもあった智恵子は、女性解放運動にも関心を示し、大学の先輩である平塚 らいてうが創刊した女性のための文芸誌『青鞜』の表紙デザインを担当した。  

Cimg5883『をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか。 年で洗はれたあなたのからだは  無辺際を飛ぶ天の金属。。。。。。時時内心おどろくほど あなたはだんだんきれいになる。』 高村光太郎著「智恵子抄 あなたはだんだんきれいになる」より   智恵子の趣味は、なんとテニスだったという。大学時代も、先輩のらいてうたちとテニスに興じたらしい。 智恵子、 らいてうともに、かなりテニスが上手かったそうだ。。。(笑)

Cimg5885光太郎(50才)と智恵子(47才)。昭和8年、病む智恵子の療養をかね那須、安達太良、磐梯山周辺の温泉を巡っている。  『二つに裂けて傾く磐梯山(ばんだいさん)の裏山は 険しく八月の頭上の空に目をみはり 裾野遠くなびいて波うち 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる 半ば狂える妻は草をしいて坐し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のように慟哭する――わたしもうぢき駄目になる。。。。。』 高村光太郎著「智恵子抄 山麓の二人」より

Cimg5890智恵子の生家。 酒造家でかなりの資産家であった。智恵子は、何不自由ない伸び伸びとした少女時代を送ったらしい。 酒好きだった光太郎は、智恵子の実家から銘酒「花霞」をとりよせ、アトリエで毎晩晩酌をやってたそうだ!!(爆) 近くのお土産屋では銘酒「花霞」を買うことができる!(笑)

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2009年8月23日 (日)

百宅(ももやけ)マタギの里

伝説では、平家の落人が山奥に逃れてきてこの土地に土着して、この村をつくったとのこと。 鳥海山東面の山々に囲まれた細長い盆地の山際に沿って十数戸の家々が点在している。

Cimg5997百宅マタギの里としても知られ、道路が整備されバスが開通するまでは、村人たちの生活も世間に縁遠く、全戸が狩猟と農耕を営んでいたという。。。。まさに、桃源郷、シャングリラ、隠れた平和郷であった。。。。

Cimg6001茅葺屋根の民家も何軒かあった。 ずかずか入り込んで写真を撮っていく輩も多いのだろう、「無断撮影、無断立ち入り禁止!」の看板が。。。!! 勝手に撮って済みません。(笑) また、村の聖地でもある守り神、神社は、なんと、立ち入り厳禁、もちろん撮影禁止でした。村人以外は参拝もできないのでしょう。。。ここまでくると、さすがに撮影はできず、遠くから手を合わせてきましたね。(笑) う~む、さすがに独特の風習もっているマタギの村だ!!まあ、でも、妙に、少し、排他性を感じるなー。。。。(笑)

Cimg5995百宅集落の奥にある法体(ほったい)の滝。滝名の由来は、法体(法衣)をまとった弘法大師空海が、ここを訪れた際、この滝に拝礼したことからきているという。。。。最近では、実写版「釣キチ三平」のロケ地として有名である。映画では「夜泣谷の滝」として登場する。予告編はこちら。 日本の滝百選にも選ばれている。


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2009年7月20日 (月)

大日坊瀧水寺・・・・即身仏の寺

湯殿山総本山 大日坊瀧水寺。 弘法大師空海が開いたとされる真言密教の聖地であった。 山形県鶴岡市朝日大網(旧朝日村大網)地区にある。 明治維新後、神仏分離令(廃仏毀釈)、修験宗廃止令に従わなかったこの寺は、明治政府によって焼かれてしまったという。。。。(涙) #明治政府の意向に従った羽黒山は消失を免れた。。。今でも国宝級の建物が多数残っている。

Cimg5792焼け残った仁王門。 鎌倉時代に建てられたもので、安置されている仁王像は、運慶の作ではないかと言われている。詳しい鑑定結果を待ちたい!!

Cimg5807仁王門、内側から撮影。 平成12年、補修のため屋根を解体したところ、「弘安2年8月仁王像運慶作」と記された棟札が発見されたという。ほんまもんであれば、すごいこと。一気に国宝ですね。(笑)

Cimg5805大日坊の本殿。 宿坊も兼ね備えている。最近まで女人禁制だったため、女性はこの寺を参詣することで湯殿山をお参りしたことになったという。 #一泊二食付き、祈祷付き、お銚子付きで、8500円より。。。

Cimg5803真如海(しんにょかい)上人の即身仏。 写真撮影は厳禁でした。(笑)   鉄竜海上人、忠海上人、鉄門海上人 等、即身仏は「海」の一字がついている。これは、真言密教の開祖「空海」の一字をもらい、「空海」の弟子として即身仏になっていったためだという。。。。  拝観料 500円払い、なんと、お坊さんのお払いと説経?を受けてからの拝観となります。やれやれ!(笑) 

真如海(しんにょかい)上人の即身仏は、6年に一度衣替えを行う。丑年の今年の6月にそれが行われた。 #「衣替大祭」の記録である。

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2009年7月 2日 (木)

東北大学 片平キャンパス Ⅱ

中国の文豪 魯迅(ろじん)は、若き日、医者をこころざし、ここ旧仙台医学専門学校に留学している。 当時、公私ともに親身になって面倒を見たのが、解剖学の教授 藤野先生であった。  『。。。仙台をはなれようとする数日前、先生は私を自分の家に呼んで、私に一枚の写真を下さった。裏には「惜別」の二つの文字が書かれてあった。』 魯迅の短編「藤野先生」より。魯迅は、この写真をずっと家に飾っていたという。。。  太宰治の小説「惜別」は。。。。仙台を舞台に留学生時代の若き魯迅と日本人学生のほのぼのとした交流を描く。。。。このエピソードがモデルになっている。 チェーホフやプーシキンが好きだった太宰、 実は、魯迅も好きだったらしい。。。。(笑)

Cimg5734キャンパス内にある魯迅の胸像と仙台医学専門学校跡地の碑。 魯迅は、明治37年に来日し、仙台に滞在したのは僅か1年半であった。 講義の合間に上映された日露戦争の幻灯で、中国人が銃殺されるシーンを見て、医学を捨て、文学によって中国を解放しようと決心したという。。。。
Cimg5740史料館内、魯迅のコーナー。  藤野先生が朱書きで添削した魯迅の講義ノートのレプリカも展示されていた。このノート、中国では門外不出で国宝級の扱いだとか。。。。

Cimg5748キャンパスの近く、片平丁にある魯迅が下宿していたところ。碑も建っている。現在の建物は昭和初期に建てられたものらしい。。。。隣は、新築レストランの工事中だった。(笑)   まわりは、オシャレなレストランやカフェ、マンションが立ち並び、ここだけ時間が止まっているようであった。  

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2009年7月 1日 (水)

東北大学 片平キャンパス Ⅰ

ここは、仙台市の中心部に在りながら奇跡的に戦災を免れたため、明治期から昭和初期の建物が多く残されている。 キャンパスといっても工学部系の研究施設だけなので、学生はほとんどいない。   仙台医学専門学校(中国の文豪 魯迅が学んだところとして有名。。。詳しくはⅡで。。)、旧制二高、旧東北帝国大学等があった場所でもある。

Cimg5771旧東北帝国大学付属図書館 (大正14年)。 現在は、東北大学の記念史料館になっていて無料で見学できる。 魯迅関係の史料も多い。

Cimg5766 東北大医学部の前身「仙台医学専門学校」の階段教室。 なんと明治37年 に建てられたうだ。 当時、仙台に留学していた魯迅もこの教室で学んでいる。 案内板も何もなく、旧東北帝大物理学部の建物に囲まれた谷間に、柵で囲まれて、ひっそりとある。非常に分かり辛い場所だ。(笑) もちろん一般公開もされてなくて中に入ることは一切できない。 10年くらい前、江沢民中国国家主席が来日したとき、是非仙台に行って魯迅が学んだ場所を見たい!!!と熱望し、この教室の内部を見学しました。当時は大変でした。仙台市内いたるところで交通規制。大渋滞。警察うようよ。まったく迷惑な話です。東京とか京都見学とかしてればよかったものを。。。。。(笑)

Cimg5767旧東北帝大物理学部の中庭。今は駐車場になっている。半面が緑の絨毯に覆われている。まるでグリーンモンスターだ。(笑) ここは、昭和9年に建てられたとのこと。

Cimg5753東北大 片平キャンパスの直ぐ西側には、清流広瀬川が大きく蛇行しながら流れている。伊達政宗の霊廟 瑞鳳殿(ずいほうでん)も近い。市民の散策コースでもある。  

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2009年6月20日 (土)

旧奥州街道を歩く Ⅱ

日本の国策に愛想を尽かした人々が「吉里吉里国」として独立する、井上ひさしの長編小説「「吉里吉里人」の舞台は、なんと、宮城県栗原市北部のこのあたりなのである!!  『。。。。。ある六月上旬の早朝、上野発青森行急行「十和田3号」を一ノ関近くの赤壁で緊急停車させた男たちがいた。「あんだ旅券ば持って居が」 。。。』 吉里吉里人より   この「一ノ関近くの赤壁」とは有壁(ありかべ)のことですね。間違いなし!!(笑)

Cimg5707緩い登りが続く。心地よい涼しさだ。森林浴にはもってこいの道だ。(笑)

Cimg5712緩い下りになる。道も少し広くなる。この先で、田んぼなどのある少し開けたところに出る。

Cimg5713壊れた案内板があった。「市乃関」?? なんか字が違ってるような気が。。。。(笑)

Cimg5715開けたところから、道は、また森の中へと続いていた。小さな峠を越えると道は下り坂となる。 このあたりは、もう一関市だろう。 江戸時代には「鬼死骸村」とよばれていたところである。ここも、横溝正史的な村名ですね!!(爆) 今も地名として残っている。

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2009年6月16日 (火)

旧奥州街道を歩く Ⅰ

宮城県栗原市金成有壁(有壁宿)から岩手県一関市(一関宿)を通る旧奥州街道には、一部ではあるが江戸時代当時の街道がそのままの姿で残されていて歩くことができる。 有壁宿は北東北諸大名の休息等に利用され、今でも当時の武家生活の雰囲気を漂わせている。

Cimg5719旧奥州街道沿いにある有壁本陣跡。御成門や中座敷が残されて、国の重要史跡に指定されている。 明治天皇の東北巡行の際には、ここ有壁本陣で休息したという。。。。。

Cimg5702有壁本陣前の奥州街道をしばらく歩くとと「伊勢堂林道」に出る。このあたりが「肘曲がり坂」と呼ばれる場所で、なかなかいい雰囲気の林道である。

Cimg5700緩い坂の途中にある「肘曲がり坂」案内板。  この辺は、まさに「奥の細道」という感じだが、実は芭蕉はここを通っていない。芭蕉は、奥州街道の東側を通る脇往還の一関街道を通り平泉に向かった。現在の国道342号線とほぼ重なる道である。ちなみに、「脇往還」とは五街道から派生する道、または、それ以外の主要な道のことである。 

Cimg5710_2林道途中から左側に入る道があり、ここからが江戸時代そのまの奥州街道である。整備されているとはいえ、ほとんど歩く人はいないのだろう、下草がびっしりと生えていた。

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