おくのほそ道

2022年5月25日 (水)

籬が嶋 (まがきがしま) (宮城県塩竈市)

先日、所用で塩竈市に行ったついでに歌枕の地 「籬が嶋」 を見てきました。昔、船から見たことはありましたが、このようにまともに見たのは初めてでした。やっと念願がかないましたね。(笑)

奥州一之宮 鹽竈神社を擁する塩竈市は、平安時代、藻塩を焼く辺境の製塩地として歌枕に親しまれてきた地でした。江戸時代以降は、城下町仙台への荷物の陸揚げ港として繁栄しました。

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「籬が嶋」 (籬神社)  周囲150メートルの塩竈湾 (千賀の浦) に浮かぶ小さな島で、島には  「おくのほそ道」 の碑や社が建っている。今は、保全のための規制で立ち入り禁止になっています。

芭蕉が 『おくのほそ道』 で 「五月雨 (さみだれ) の空いささかはれて夕月夜かすかに、籬が嶋もほど近し」 と書いた塩竈湾の歌枕の地。 芭蕉の時代は、広い塩竈湾にポツンと浮かんでいたそうですが、現在は、湾の埋め立てによって陸地から間地かに見られるようになりました。

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籬が島 (まがきがしま) の説明板 

仙台から多賀城の歌枕の地を巡って来た芭蕉と曽良は、1689年6月24日 (旧暦5月26日) に塩竈に到着。ちょうど梅雨のころでした。

『塩がまの浦に入相 (いりあい) のかねを聞く。五月雨 (さみだれ) の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬が嶋もほど近し。あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、 「綱手かなしも」 とよみけむ心もしられて、いとど哀 (あわ) れなり。 

その夜、目盲 (めくら) 法師の琵琶をならして奥 じょうるりといふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝 (しゅしょう) に覚えらる』  ( 松尾芭蕉  『おくのほそ道』 より)

 

「現代語訳」

『塩竈の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘 (夕暮に寺でつく鐘) が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬が島も湾内のほど近いところに見える。漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚を分ける声がする。それを聞いていると古人が 「つなでかなしも」 と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。 

その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃  (おくじょうるり)  というものを語った。平家琵琶とも幸若舞  (こうわかまい)  とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに奥州の伝統を守り伝えるものだから興味深く感心して聴き入った』    ( 松尾芭蕉  『おくのほそ道』 より)

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島の反対側から撮影  現在の 「籬が島」 は、曲木漁港内にポツンと浮かんでいます。

「我が背子を みやこにやりて 塩釜の まがきの島の 松ぞ恋しき」  ( 『古今和歌集・東歌』  詠み人知らず より)

ちなみに 「背子」 とは、夫など愛しい人という意味です。

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塩竈湾を望む  

この翌日、鹽竈神社を詣でた芭蕉と曽良は、 「マリンゲート塩釜」 の観光桟橋がある辺りから船に乗り松島に向かいました。

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2010年10月23日 (土)

野田の玉川 おもわくの橋 (宮城県多賀城市)

1689年、芭蕉もここを訪れている。 歌枕の六玉川(むたまがわ)の地として有名であった。ちなみに、六玉川とは、野田の玉川(宮城県多賀城市)、野路の玉川(滋賀県草津市)、調布の玉川(東京を流れる多摩川)、井手の玉川(京都府井手)、 三島の玉川(大阪府高槻市)、高野の玉川(和歌山県高野山)である。  仙台から多賀城~塩竃にかけては、古来多くの歌枕の地があった。「宮城野」、「十符の菅」、「壺の碑」、「末の松山」、「沖の石」、「浮島」、「塩竃」・・・・、芭蕉と曽良は、これらの歌枕の地をすべて訪ねているのである。 

Cimg0033野田の玉川に架かる「おもわくの橋」、ここも歌枕の地である。  「おもわく」とは人の名前である。この地には、前九年の役のヒーロー安倍貞任にまつわる伝説が残されている。 前九年の役が勃発する前、大和朝廷とエミシの関係は良好であった。エミシからの朝貢も行なわれ、多くのエミシたちが多賀城に出入りしていた。 この時、エミシである安倍貞任と多賀城の役人の娘である「おもわく」が知り合い、恋仲になったという。 「おもわく」の家のある紅葉山に通うために、貞任はこの川に橋をかけさせたのである。このことから「おもわくの橋」、「安倍の待ち橋」と呼ばれるようになったという。

「踏まば憂(う)き 紅葉(もみじ)の錦散りしきて 人も通わぬ おもわくの橋」( 西行法師 山家集より)

Cimg0035現在の野田の玉川、ほとんどが暗渠になっていて川が見えない。このあたりだけが、なんとか川の状態を保っている。川というより堀である。 当時は、この先が直ぐ海だったという。干潟が広がり、さざなみが立ち、潮風がふき、浜千鳥が群れをなしてたたずんでいたのだろう・・・・・・芭蕉が訪れた江戸時代前期には、すでに当時の景観は失われていたのである。(涙)

「夕されば汐風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり」能因法師 (新古今和歌集より)

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2008年6月21日 (土)

平泉を歩くⅠ

5月末、栗駒山に登った帰りに平泉を散策してきました。世界文化遺産登録を目指していた平泉に対し、5月にユネスコから「登録延期勧告」の決定が下されまし。今回の地震で多少の被害が出た平泉。文部科学省高官は地震被害に関係なくユネスコに働きかけて行く方針を示したとのこと。さて、最終決定は7月!!逆転なるか??(笑)

Cimg42291毛越寺(もうつうじ)は、藤原氏が築いた極楽浄土庭園である。ただ、度重なる火災・戦災等で当時の建物のほとんどは失われている。 写真は、毛越寺の大泉ヶ池と荒磯を表現したという出島石組と池中立石。

Cimg42254大池にびっしりと敷き詰められた玉石。後方に見えるのは毛越寺の本堂。 平安時代の庭園大泉ヶ池が当時のままの姿で発掘されたとのこと。特に、平安時代の完全な形で発掘された遣水(やりみず)の遺構は、日本で唯一のものだとか。

Cimg42362国の特別史跡・特別名勝の二重指定を受けている毛越寺、こんな寺、全国的にも稀である。 残念ながら芭蕉はここを訪れてはいない。毛越寺を素通りして真っ先に向かったのは、義経ゆかりの高館(たかだち)だった!!同行の曽良は、毛越寺に寄らなかったことを最後まで悔やんでいたとか。。。。

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2006年11月 1日 (水)

鳴子峡~出羽街道中山越を歩く (宮城県大崎市鳴子温泉)

秋晴れの心地よい空気の中、鳴子峡から「歴史の道」出羽街道中山越を歩いてきました。 今回は、先週の温泉旅行に続き、なぜか二人旅でした。コースは、鳴子側入口駐車場(10:00発)→鳴子峡(遊歩道)→中山平側入口→おくのほそ道(出羽街道)入口→大深沢→小深沢→旧鳴子スキー場→斉藤茂吉の碑→尿前の関→駐車場(13:00着)   約3時間のハイキングでした。 

昔の出羽街道中山越は、カゴや馬車も通れない難所でした。ここを越えた芭蕉と曾良は、小深沢・大深沢の大きな谷を下り、また同じ高さまで這うようにして登る山道の険しさにヘトヘトになり、やっとの思いで境田に到着しました。 今では、この山道も整備され 「歴史の道」 として生まれ変っています。

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中山平側入口への坂道付近から望む大深沢橋。   究極の峡谷美!

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「回顧橋」から見上げた大深沢橋。  100メートル以上あるとのこと。すごい高さです。

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中山平側入口「見晴らし台」から望む 鳴子峡と花渕山(985メートル)  花渕山の紅葉も進んできました。

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大深沢橋から望むJR陸羽東線鳴子トンネル出口付近。  列車からも錦秋の絶景鳴子峡を見ることができる。紅葉の時期は、列車はスピードダウンします。

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鳴子温泉側入り口。ここから約1時間、中山平側入口までの散策が始まる。

鳴子温泉と中山平温泉を結んで流れる大谷川が刻んだ、深さ100メートルにも達する断崖絶壁の鳴子峡。芭蕉の時代は通ることは不可能でしたが、今は遊歩道が整備され片道2.6キロ 約1時間の散策を楽しむことができます。春の新緑の時期も良いようですが、紅葉の時期は、とりわけ美しく究極の峡谷美を楽しむことができます。 

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鳴子温泉側付近は、大谷川の渓も広く、明るく、開放的な感じです。

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鳴子温泉側入口から1.3キロ、中間部にある大谷観音。  ここから渓は、急に狭くなり100メートルの断崖絶壁が間地かに迫ってきます。

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最初の橋「長生橋」。  ここから、五つの橋を渡りながらジグザクに曲りくねった峡谷を進んでいきます。

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「五峰の橋」方面を望む。 狭く深い谷底には、太陽の光も差し込まないのか苔むした岩が多かった。

昭和7年に天然記念物に指定され、昭和36年には宮城県の名勝に指定された鳴子峡。この峡はすべて、火山灰や火山レキ、火山弾等の堆積物が、大谷川の流れによって侵食された代表的なV字谷です。特に、大谷観音から上流付近は、羽衣岩や弁慶岩、烏帽子岩、夫婦岩等の奇岩が連なり、一種独特の雰囲気を醸し出しています。

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中間付近にある「不老の滝」

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「雄虹橋」から望む。 奇岩の断崖と紅葉と渓流が織り成す景観は見事でした。このあたりは、庇のように低くせり出した岩があったり、真っ暗なトンネルがあったりと、けっこうスリリングです。

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「回顧橋」手前付近。 このあたりの紅葉も見事でした。ここまで狭い谷底を歩いてくると地上が恋しくなります。地上に出るには、九十九折(つづらおり)の急斜面を登らなければなりません。高齢者の方はかなり大変そうでした。

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おくのほそ道(出羽街道)入口。 鳴子峡中山平側入口から国道を山形方面に少し歩くと「おくのほそ道入口」の標識があります。それに従い、国道を右側に進んで行くと この入口があります。

おくのほそ道最大の目的地である松島と平泉を訪れた芭蕉と曾良は、次の目的地である友人の待つ尾花沢へと向かった。 曾良の旅日記によれば、岩出山の宿で協議した結果、当初の予定コース(旧中新田町→旧小野田町→鍋越峠→尾花沢)を断念して、出羽街道中山越のコースを選択したのでした。理由は、中山越コースの方が距離が短く難所も少ないと判断した為 のようです。この選択は、正しかったのか??わたくしは正しかったと思います。なぜなら、この選択がなければ、あのユーモアたっぷりの有名な句も生まれなかったし、山刀伐峠越えの臨場感あふれる描写も生まれなかったからです。

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大深沢の渡渉。 入口から、九十九折(つづらおり)の急な坂道を谷底を目指してしばらく下ると大深沢が現れます。

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大深沢からの坂道。 今度は、谷底から同じ高さまで、九十九折の登りが続きます。階段が付けられていなかったら、けっこうしんどい登りですね。

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まだまだ、九十九折りの登りは続く。紅葉に彩られた出羽街道の坂道は快適でもあります。

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大深沢の坂道を登りきったあたりからは、ミズナラやクリ等の林に囲まれた快適な道がしばらく続きます。

出羽街道は、東北地方の中央部に位置し、1000年以上も前から陸奥(奥州)と出羽を結ぶ重要な道でした。鳴子温泉からのこの道は、六つの急坂の上り下りと六つの渡渉があり最大の難所地帯であったとのこと。ちなみに、義経一行は、最上川を遡り山形側からこの道を芭蕉とは逆方向に歩き平泉に逃れました。 

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ところどころに設置してある出羽仙台街道の標識。 古代においては、多賀城と出羽柵とを結ぶ街道でもありました。

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この付近から、小深沢への九十九折(つづらおり)の下りが始まります。紅葉が美しい!

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小深沢からの登り。 ここを登りきると国道に出ます。

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斉藤茂吉の句碑。  「元禄の芭蕉おきなも ここ越えて 旅のおもひを とことはにせり」  茂吉もまた「おくのほそ道」を感じ味わう為には、そこに描かれた「道」を歩いてみることが必要だと思ったようです。後方に見えるのは花渕山。 

「なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(ようよう)として関を越す。」 尿前の関は、仙台藩が設置した出羽街道中山越の重要な関所で、荒雄川(江合川)に合流する大谷川(鳴子峡)の下流付近にありました。江合川沿いに続いていた平坦な道は、ここで、突然、鳴子峡と花渕山、大柴山の山塊で遮られました。芭蕉と曾良は、鳴子峡の入口を見ただけで、奥羽山脈越えという難所に向かったのです。

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尿前の坂。  尿前の関所を通ると直ぐに急な坂道が続きます。

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尿前の関所跡。  中高年のハイカーグループが、くつろいでお弁当を食べていました。話しを伺うと、私らと同じコースを歩いて来たとのこと。「歴史の道」では、誰とも会わなかったのでなんか嬉しくなりましたね。

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尿前の関所跡に建つ句碑と芭蕉翁像。  「蚤虱 馬の尿する 枕もと」、ユーモアのセンスにあふれた名句です。ストイックで菜食主義者? の芭蕉にしては、珍しい句ですね。

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