おくのほそ道

2010年11月18日 (木)

みやぎの明治村 Ⅱ(宮城県登米市登米)

北上川沿いの街、登米市(とめし)登米(とよま)は、登米伊達藩2万石の城下町である。前小路、後小路と呼ばれるあたりには、十数軒の武家屋敷残されています。のどかで、静かで、ゆったりとした空気が流れている街です。最近では、いろんな映画のロケ地として使われているとのこと。  

Cimg0150武家屋敷の一つ「春蘭亭」、ほとんど農家ですね。(笑) 紅葉が目にしみる。干し柿が笑っている・・・・・ここは、藤沢周平原作の映画「必殺剣 鳥刺し」のロケ地になっています。秘剣「鳥刺し」を編み出した豊川悦司演ずる剣豪の壮絶な殺陣が話題となった作品です。映画「必殺剣 鳥刺し」はこちらをどうぞ。

Cimg0154北上川、ここから石巻の河口まで40キロほどか・・・・。この辺りまでくると、川幅もかなり広くなり大河の様相をしめしている。 ここ登米には、北上川産の天然ウナギを食べさせてくれる店があります。ただし予約が必要とのこと。 北上川沿いにある明治8年創業の老舗 うなぎ割烹「東海亭」江戸時代創業の「清川」です。ウナギ好きのかたは是非どうぞ、ただしかなり高いですよ。(笑)


Cimg0162北上川河畔に建つ芭蕉翁一宿の跡の碑。  あこがれの松島を後にするとき、芭蕉は迷っていた。どの街道を通って、義経終焉の地であり、おくのほそ道最大の目的地 平泉に向かうべきかと・・・・・奥州街道に出で進むべきか、石巻に出で、「脇往還」呼ばれる五街道から派生する道(脇道)を進むべきかと・・・・結局、金華山をみたいとの万葉への憧れから石巻を通って平泉に向かうことにしたのである。ちなみに、当時、大伴家持の歌でしられる「みちのくの黄金産地」は金華山と思われていたのです。 石巻で一泊した芭蕉は、この地でも一泊し翌日平泉に向かったのである。 おくのほそ道には、「どこまで長いか不安になるような長沼という沼沿いに進み、戸伊摩(登米、とよま)というところで一泊して、平泉に到着した。その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。」 という記述しかないのである。(笑)


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2010年10月23日 (土)

野田の玉川 おもわくの橋 (宮城県多賀城市)

1689年、芭蕉もここを訪れている。 歌枕の六玉川(むたまがわ)の地として有名であった。ちなみに、六玉川とは、野田の玉川(宮城県多賀城市)、野路の玉川(滋賀県草津市)、調布の玉川(東京を流れる多摩川)、井手の玉川(京都府井手)、 三島の玉川(大阪府高槻市)、高野の玉川(和歌山県高野山)である。  仙台から多賀城~塩竃にかけては、古来多くの歌枕の地があった。「宮城野」、「十符の菅」、「壺の碑」、「末の松山」、「沖の石」、「浮島」、「塩竃」・・・・、芭蕉と曽良は、これらの歌枕の地をすべて訪ねているのである。 

Cimg0033野田の玉川に架かる「おもわくの橋」、ここも歌枕の地である。  「おもわく」とは人の名前である。この地には、前九年の役のヒーロー安倍貞任にまつわる伝説が残されている。 前九年の役が勃発する前、大和朝廷とエミシの関係は良好であった。エミシからの朝貢も行なわれ、多くのエミシたちが多賀城に出入りしていた。 この時、エミシである安倍貞任と多賀城の役人の娘である「おもわく」が知り合い、恋仲になったという。 「おもわく」の家のある紅葉山に通うために、貞任はこの川に橋をかけさせたのである。このことから「おもわくの橋」、「安倍の待ち橋」と呼ばれるようになったという。

「踏まば憂(う)き 紅葉(もみじ)の錦散りしきて 人も通わぬ おもわくの橋」( 西行法師 山家集より)

Cimg0035現在の野田の玉川、ほとんどが暗渠になっていて川が見えない。このあたりだけが、なんとか川の状態を保っている。川というより堀である。 当時は、この先が直ぐ海だったという。干潟が広がり、さざなみが立ち、潮風がふき、浜千鳥が群れをなしてたたずんでいたのだろう・・・・・・芭蕉が訪れた江戸時代前期には、すでに当時の景観は失われていたのである。(涙)

「夕されば汐風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり」能因法師 (新古今和歌集より)

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2010年5月18日 (火)

シオーモの小径 Ⅳ

奥州一ノ宮 鹽竈神社。奈良・平安の昔から東北鎮護・陸奥国一ノ宮として国の特別保護を受けてきた古社である。 奥州一ノ宮ということで、東北では最高位、天皇が行幸される際は、最初に参詣ところである。 奈良・平安の昔から現代まで、多くの文人が参詣している。 松尾芭蕉も、1689年の6月に参詣している。めざすは、奥州藤原氏が寄進した「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」であった。 

Cimg6587表参道、奥の方に楼門(随身問)が見える。 芭蕉もこの202段の石段を登り参拝している。 「早朝、塩かまの明神に詣(まう)づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階九仭(きざはしきゅうじん)に重なり、朝日あけの玉がきをかかやかす。。。。」(早朝、塩釜の明神に参詣した。この神社は、藩主が再建なさり、社殿の柱は太く、彩色された垂木はきらびやかで、石の階段がたいそう高く連なっており、朝日が朱塗りの玉垣を輝かしている。) 「おくのほそ道」より

Cimg6575楼門(隋身門)、表参道を登りきったところにそびえたつ、朱塗りの荘厳な門だ。この奥に社殿がある。 現在の社殿は、芭蕉が参拝したときよりも新しい時代のものだ。 しかし、社殿前の一対の「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」は、800年前とほとんど同じ場所にたっている。-------------------

Cimg6576「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」と天然記念物の 鹽竈ザクラ。   義経を敬愛していた芭蕉は、義経に仕え、義経とともに戦死した藤原(泉三郎)忠平(藤原秀衡の三男)が寄進した、この燈篭を是非とも見てみたかったのである。。。。#義経と奥州藤原氏の悲劇的な運命に思いをはせたのだろう。。。 『社殿の前に古い立派な燈籠がある。鉄の扉の表面には「文治三年(1187年)和泉三郎寄進」とある。五百年経っても変わらぬ姿が、今目の前に浮かび上がり、何とも珍しい。彼は、勇気と義理と忠孝の士だった。その誉れある名は今日まで伝わり、慕わない者はいない。まことに人はよく道にかなった行いをし、義理を守るべきだ。「名声もそれらに伴うものである」と言われている』 「おくのほそ道」 より

Im100409天然記念物の 鹽竈ザクラ、八重桜の一種。 非常にデリケートな桜で、手入れをしないでほうっておくと直ぐに枯れてしまうとここと。現在は、手厚い保護と保存処置のおかげで、約40本ほどに増えたという。。。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」。。。(笑)


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2008年7月 5日 (土)

平泉を歩くⅣ

#さて、平泉!逆転なるか?? まあ、ダメでも平泉の価値そのものは変わる訳ではないのですが。。。。 「三代の栄耀(えよう)一睡の内にして、大門の跡は一理のこなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏(きんけい)山のみ形を残す。。。。。。」 松尾芭蕉「おくのほそ道」より

Cimg42741_2金鶏(きんけい)山登山口。金鶏(きんけい)山は、標高約100メートルで秀衡が造った人口の山との説がある。なるほど、よく見ると綺麗なピラミッド型をしている。ちなみに、秀衡がこの山を造営するときに、雌雄の黄金の鶏を埋めたとの伝説が残っている。しかし、いまだに、この黄金の鶏は発見されていない!(爆)

Cimg42762_2金鶏山の登口付近には、義経が自害する際に死んだとされる、彼の妻「北の方」と娘の墓があります。けっこうな急斜面を登りきった山頂には鳥居と祠があります。

Cimg42873_2平泉を歩く際には、この観光案内を参考にして下さい。(笑) ちなみに芭蕉は、金鶏山に立ち寄ることなく、平泉を後にし一関から岩出山方面に向かったのでした。。。。

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2008年6月25日 (水)

平泉を歩くⅢ

「まづ、高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。。。。。さても、義臣すぐってこの城に篭り、功名の一時の叢(くさむら)となる。 国破れて山河あり、城春にして草青みたり と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」 松尾芭蕉 「おくのほそ道」より

Cimg42711_2高館の義経堂。頼朝を恐れた泰衡は義経を襲撃した。義経は高館に篭って応戦したが自害に追い込まれてしまったのだった。義経享年31才! 芭蕉は、杜甫の詩を口ずさみながら、笠を敷いて腰を下ろし時のたつまで、義経を思って涙を流したのであった。。。#やっぱり、ここは、おくのほそ道の中でも屈指のクライマックスシーンだろーなー。。。

Cimg42592_2「おくのほそ道」の中で最も有名な句で、最高傑作といわれる「夏草や。。。」の句は、ここで詠まれたものである。 ある人の説によると、「兵ども」とは義経主従と平泉の奥州騎馬軍団のことであり、「夢の跡」とは、義経が抱いていたであろう奥州騎馬軍団を率いての頼朝への反撃と新しい国づくり のことだという。。。。

Cimg42613_2高館から見る北上川。まさに、南部藩領から伊達藩領に流れる大河である。ここからの、北上川、束稲(たばしね)山の眺望は素晴らしい。ここに佇んでいると、なぜか義経北行伝説が単なる伝説ではないと思えてくるから不思議だ!(笑)

Cimg42424_2JR東北本線平泉駅。芭蕉は、平泉駅の前の道(中尊寺通り)を通り、無量光院跡を見て、高館に向かった。平泉駅からゆっくり歩いても、柳之御所経由で約30分くらいで高館に着く。

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2008年6月22日 (日)

平泉を歩くⅡ

「もう、500年もたってしまったのです。歴史の地、平泉に立つと、古人の情念が大地からそくそくと這い上がってくるようで、心が騒ぎます。。。。。。。藤原清衡、基衡、秀衡三代かけて、北方で築き上げたという黄金の都は、どこに行ったのでしょうか。私(曽良)が目にするものは、村の農村風景だけです。」 曽良(そら)の旅日記より

Cimg42831毛越寺を創建した藤原氏二代基衡の妻が建立したとされる観自在王院跡。ここは、京都にある浄瑠璃寺を模倣して造られたとのこと。

Cimg42852毛越寺の東隣に位置している観自在王院跡。
現在は、発掘・整備されて日本屈指の庭園として名勝に指定されている。爽快なほど素晴らしい庭園であった。

Cimg42553宇治の平等院をしのぐ規模で造営された無量光院跡。建物は、とっくの昔に消滅し、夏草が繁茂し、礎石と池跡、島跡が僅かに残っているだけだった。

Cimg42494建築様式、院内の荘厳さ等すべてにいたるまで平等院を模倣した無量光院は、現世の浄土でもあった。 芭蕉と曽良もここの道を通り高館に向かっている。

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2008年6月21日 (土)

平泉を歩くⅠ

5月末、栗駒山に登った帰りに平泉を散策してきました。世界文化遺産登録を目指していた平泉に対し、5月にユネスコから「登録延期勧告」の決定が下されまし。今回の地震で多少の被害が出た平泉。文部科学省高官は地震被害に関係なくユネスコに働きかけて行く方針を示したとのこと。さて、最終決定は7月!!逆転なるか??(笑)

Cimg42291毛越寺(もうつうじ)は、藤原氏が築いた極楽浄土庭園である。ただ、度重なる火災・戦災等で当時の建物のほとんどは失われている。 写真は、毛越寺の大泉ヶ池と荒磯を表現したという出島石組と池中立石。

Cimg42254大池にびっしりと敷き詰められた玉石。後方に見えるのは毛越寺の本堂。 平安時代の庭園大泉ヶ池が当時のままの姿で発掘されたとのこと。特に、平安時代の完全な形で発掘された遣水(やりみず)の遺構は、日本で唯一のものだとか。

Cimg42362国の特別史跡・特別名勝の二重指定を受けている毛越寺、こんな寺、全国的にも稀である。 残念ながら芭蕉はここを訪れてはいない。毛越寺を素通りして真っ先に向かったのは、義経ゆかりの高館(たかだち)だった!!同行の曽良は、毛越寺に寄らなかったことを最後まで悔やんでいたとか。。。。

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2007年6月17日 (日)

宮城県鳴子温泉~山形県最上町堺田

「日既に暮れければ、封人家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よし無き山中に逗留す。。。。。「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 おくのほそ道 より

宮城県鳴子温泉の小深沢~大深沢~中山峠の難所を越えた芭蕉と曽良は、ヘトヘトになりながら、やっとの思いで山形県最上町の「封人(ほうじん)の家」(旧有路家)にたどり着いた。 封人の家とは、出羽の新庄藩領堺田村にあった国境を守る役人の家のことである。 芭蕉と曽良は、大雨にたたられ、ここに二泊したのであった。 この時生まれた歌がこれである。

Cimg35451「封人家」(旧有路家、重要文化財)。 おくのほそ道の道中で、芭蕉宿泊の家がそのまま残っているのは、唯一ここだけである。

Cimg35623JR陸羽東線堺田駅。標高338メートル、鳴子温泉と山形県最上町の堺にある。駅前は、日本で二番目に低い「分水嶺」の公園として整備されている。

Cimg35532北から流れてきた用水路が東西に分かれて流れている。右に流れれば、江合川、北上川を経て太平洋へ!左に流れれば、小国川、最上川を経て日本海へ!なんともロマンだなー(笑) しかも、ここのように、はっきりと水が分流している様子を見られるのは、全国的にも非常に珍しいとのこと。

Cimg35644街並みも無し、家も数件あるのみ、なんでこんなところに駅があるのや?って感じ。いわゆる秘境駅と言われる部類です。(爆)#もちろん無人駅。 芭蕉と曽良は、堺田駅の西側を通り山刀伐峠へと向かったのである。。。。。

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2007年6月16日 (土)

刀切伐峠(山形県最上町~尾花沢市)を歩く

「究境(がっちりとした)の若者、反脇差指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携えて、我々が先に立ちて行く。。。。高山森々として一鳥声聞かず。。。。」 「おくのほそ道」より。 道中の最大の難所であった刀切伐峠越、元々は、一般の人々が通る道ではなく、修験者の通る道であった。

Cimg35401尾花沢市側の入口付近。ここから峠のトップを往復しても約1時間くらい。歴史の道として整備されている。

Cimg35262ブナやナラの木に覆われた気持ちの良い登山道が続く。 ここ刀切伐峠全体は、「出羽街道刀切伐峠越」として国指定の史跡になっている。

Cimg35313刀切伐峠のトップには、峠の目印となる子持ち杉の大木と子宝地蔵の祠、あと、「おくのほそ道」の一節を刻んだ石碑がある。
Cimg35364刀切伐峠の芭蕉と曽良!(笑) 峠の標高は470メートルである。たいした山ではないが、鬱蒼とした森林に覆われ、二十七曲がりと呼ばれる急斜面の登りになっいるため、芭蕉の時代(三百数十年前)には、とんでもない難所であった。

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2006年11月 5日 (日)

鳴子峡~出羽街道中山越を歩く Ⅵ

「なるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(ようよう)として関を越す。」  尿前の関は、仙台藩が設置した出羽街道中山越の重要な関所で、荒雄川(江合川)に合流する大谷川(鳴子峡)の下流付近にありました。 江合川沿いに続いていた平坦な道は、ここで、突然、鳴子峡と花渕山、大柴山の山塊で遮られました。 芭蕉と曾良は、鳴子峡の入口を見ただけで、奥羽山脈越えという難所に向かって行ったのです。。。。。。

Cimg1455斉藤茂吉の句碑。「元禄の芭蕉おきなも ここ越えて 旅のおもひを とことはにせり」 茂吉もまた、「おくのほそ道」を感じ味わう為には、そこに描かれた「道」を歩いてみることが必要だと思ったようです。後方に見えるのは花渕山。 この句碑は、国道に出てから旧鳴子スキー場方面に少し歩き、そこをを過ぎた辺りにあります。

Cimg1467尿前の坂。 尿前の関所を通ると直ぐに急な坂道が続きます。

Cimg1478尿前の関所跡。 中高年のハイカーグループが、くつろいでお弁当を食べていました。 話しを伺うと、私らと同じコースを歩いて来たとのこと。「歴史の道」では、誰とも会わなかったので、なんか嬉しくなりましたね。(笑)

Cimg1476尿前の関所跡に建つ句碑と芭蕉翁像。 「蚤虱 馬の尿する 枕もと(爆)」 と(爆)を付けてもなんの違和感もないほど、ユーモアのセンスにあふれた句です。ストイックで菜食主義者?の芭蕉にしては、珍しい句ですね。

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