おくのほそ道

2008年7月 5日 (土)

平泉を歩くⅣ

#さて、平泉!逆転なるか?? まあ、ダメでも平泉の価値そのものは変わる訳ではないのですが。。。。 「三代の栄耀(えよう)一睡の内にして、大門の跡は一理のこなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏(きんけい)山のみ形を残す。。。。。。」 松尾芭蕉「おくのほそ道」より

Cimg42741_2金鶏(きんけい)山登山口。金鶏(きんけい)山は、標高約100メートルで秀衡が造った人口の山との説がある。なるほど、よく見ると綺麗なピラミッド型をしている。ちなみに、秀衡がこの山を造営するときに、雌雄の黄金の鶏を埋めたとの伝説が残っている。しかし、いまだに、この黄金の鶏は発見されていない!(爆)

Cimg42762_2金鶏山の登口付近には、義経が自害する際に死んだとされる、彼の妻「北の方」と娘の墓があります。けっこうな急斜面を登りきった山頂には鳥居と祠があります。

Cimg42873_2平泉を歩く際には、この観光案内を参考にして下さい。(笑) ちなみに芭蕉は、金鶏山に立ち寄ることなく、平泉を後にし一関から岩出山方面に向かったのでした。。。。

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2008年6月25日 (水)

平泉を歩くⅢ

「まづ、高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。。。。。さても、義臣すぐってこの城に篭り、功名の一時の叢(くさむら)となる。 国破れて山河あり、城春にして草青みたり と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」 松尾芭蕉 「おくのほそ道」より

Cimg42711_2高館の義経堂。頼朝を恐れた泰衡は義経を襲撃した。義経は高館に篭って応戦したが自害に追い込まれてしまったのだった。義経享年31才! 芭蕉は、杜甫の詩を口ずさみながら、笠を敷いて腰を下ろし時のたつまで、義経を思って涙を流したのであった。。。#やっぱり、ここは、おくのほそ道の中でも屈指のクライマックスシーンだろーなー。。。

Cimg42592_2「おくのほそ道」の中で最も有名な句で、最高傑作といわれる「夏草や。。。」の句は、ここで詠まれたものである。 ある人の説によると、「兵ども」とは義経主従と平泉の奥州騎馬軍団のことであり、「夢の跡」とは、義経が抱いていたであろう奥州騎馬軍団を率いての頼朝への反撃と新しい国づくり のことだという。。。。

Cimg42613_2高館から見る北上川。まさに、南部藩領から伊達藩領に流れる大河である。ここからの、北上川、束稲(たばしね)山の眺望は素晴らしい。ここに佇んでいると、なぜか義経北行伝説が単なる伝説ではないと思えてくるから不思議だ!(笑)

Cimg42424_2JR東北本線平泉駅。芭蕉は、平泉駅の前の道(中尊寺通り)を通り、無量光院跡を見て、高館に向かった。平泉駅からゆっくり歩いても、柳之御所経由で約30分くらいで高館に着く。

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2008年6月22日 (日)

平泉を歩くⅡ

「もう、500年もたってしまったのです。歴史の地、平泉に立つと、古人の情念が大地からそくそくと這い上がってくるようで、心が騒ぎます。。。。。。。藤原清衡、基衡、秀衡三代かけて、北方で築き上げたという黄金の都は、どこに行ったのでしょうか。私(曽良)が目にするものは、村の農村風景だけです。」 曽良(そら)の旅日記より

Cimg42831毛越寺を創建した藤原氏二代基衡の妻が建立したとされる観自在王院跡。ここは、京都にある浄瑠璃寺を模倣して造られたとのこと。

Cimg42852毛越寺の東隣に位置している観自在王院跡。
現在は、発掘・整備されて日本屈指の庭園として名勝に指定されている。爽快なほど素晴らしい庭園であった。

Cimg42553宇治の平等院をしのぐ規模で造営された無量光院跡。建物は、とっくの昔に消滅し、夏草が繁茂し、礎石と池跡、島跡が僅かに残っているだけだった。

Cimg42494建築様式、院内の荘厳さ等すべてにいたるまで平等院を模倣した無量光院は、現世の浄土でもあった。 芭蕉と曽良もここの道を通り高館に向かっている。

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2008年6月21日 (土)

平泉を歩くⅠ

5月末、栗駒山に登った帰りに平泉を散策してきました。世界文化遺産登録を目指していた平泉に対し、5月にユネスコから「登録延期勧告」の決定が下されまし。今回の地震で多少の被害が出た平泉。文部科学省高官は地震被害に関係なくユネスコに働きかけて行く方針を示したとのこと。さて、最終決定は7月!!逆転なるか??(笑)

Cimg42291毛越寺(もうつうじ)は、藤原氏が築いた極楽浄土庭園である。ただ、度重なる火災・戦災等で当時の建物のほとんどは失われている。 写真は、毛越寺の大泉ヶ池と荒磯を表現したという出島石組と池中立石。

Cimg42254大池にびっしりと敷き詰められた玉石。後方に見えるのは毛越寺の本堂。 平安時代の庭園大泉ヶ池が当時のままの姿で発掘されたとのこと。特に、平安時代の完全な形で発掘された遣水(やりみず)の遺構は、日本で唯一のものだとか。

Cimg42362国の特別史跡・特別名勝の二重指定を受けている毛越寺、こんな寺、全国的にも稀である。 残念ながら芭蕉はここを訪れてはいない。毛越寺を素通りして真っ先に向かったのは、義経ゆかりの高館(たかだち)だった!!同行の曽良は、毛越寺に寄らなかったことを最後まで悔やんでいたとか。。。。

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2007年10月 2日 (火)

セミ論争

山寺と芭蕉と言えば、山形が生んだ大歌人 斉藤茂吉と国文学者の小宮豊隆の所謂「セミ論争」を思い浮かべる方も多いでしょう! 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」のセミは、どの種類のセミだったか?という、昭和初期の論争である。 なんか、笑ってしまいそうな論争ですね!  茂吉が主張したのはアブラゼミ、小宮が主張したのはニイニイゼミ。。。。。さて、どちらに軍配が上がったか!!、それは、小宮の主張したニイニイゼミだったとか。。。。なぜなら、芭蕉が山寺を訪れた新暦の7月13日頃は、アブラゼミの鳴く時期ではなかったらしい。。。。ちなみに、アブラゼミが鳴きだすのは、7月20日過ぎとのこと。。。。やれやれ、大人気ないというか、こんなのどうでもいいべやー!と思うのですがねー。。。。(笑)

Cimg0511山寺は、僧たちの修業の地として開かれた。。。。。登山口付近にある根本中堂(重要文化財)。ブナ材の建築物では、日本最古のものであるとのこと。1000年前に比叡山から移された法灯が現在も守られている。 なんと東北的な建造物であろうか。。。。

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2007年10月 1日 (月)

山寺(宝珠山立石寺)

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」by 芭蕉  
「Such stillness-The cries of the cicadsa Sink into the rocks. 」by ドナルド・キーン

私用で、山形市に行った帰りに山寺を散策してきました。(10数年ぶり) 山寺は、山岳仏教の古刹であることから「山寺」と呼ばれ、地元の人々の信仰も集めている神聖な霊場でもあります。  尾花沢の豪商鈴木清風の強い勧めで、芭蕉が山寺を訪ねたのは1686年の夏でした。訪れる予定のなかった地で、「おくのほそ道」屈指の名句が生まれたという意外性!人生という旅は、意外性の連続、どこで、どう転ぶかホントにわからないものですねー。。。。(笑) 

Cimg05151山寺中腹、せみ塚付近から見る仁王門。ケヤキで作られた重厚な山門である。運慶の弟子によって作られたとされる仁王像が左右に立っている。

Cimg05142立石寺の芭蕉像は、お坊さん風であった。(笑) 芭蕉を敬愛しているドナルド・キーンさんによれば、この「閑かさや。。。」の名句は、禅の思想の影響のもとに作られていて、東洋神秘主義の結晶的傑作だとのこと。 ちなみに、芭蕉は、江戸深川に住んでいた頃、臨斎の禅僧仏項和尚に師事し禅の思想を学んでいたらしい。。。。

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2007年6月17日 (日)

宮城県鳴子温泉~山形県最上町堺田

「日既に暮れければ、封人家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よし無き山中に逗留す。。。。。「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 おくのほそ道 より

宮城県鳴子温泉の小深沢~大深沢~中山峠の難所を越えた芭蕉と曽良は、ヘトヘトになりながら、やっとの思いで山形県最上町の「封人(ほうじん)の家」(旧有路家)にたどり着いた。 封人の家とは、出羽の新庄藩領堺田村にあった国境を守る役人の家のことである。 芭蕉と曽良は、大雨にたたられ、ここに二泊したのであった。 この時生まれた歌がこれである。

Cimg35451「封人家」(旧有路家、重要文化財)。 おくのほそ道の道中で、芭蕉宿泊の家がそのまま残っているのは、唯一ここだけである。

Cimg35623JR陸羽東線堺田駅。標高338メートル、鳴子温泉と山形県最上町の堺にある。駅前は、日本で二番目に低い「分水嶺」の公園として整備されている。

Cimg35532北から流れてきた用水路が東西に分かれて流れている。右に流れれば、江合川、北上川を経て太平洋へ!左に流れれば、小国川、最上川を経て日本海へ!なんともロマンだなー(笑) しかも、ここのように、はっきりと水が分流している様子を見られるのは、全国的にも非常に珍しいとのこと。

Cimg35644街並みも無し、家も数件あるのみ、なんでこんなところに駅があるのや?って感じ。いわゆる秘境駅と言われる部類です。(爆)#もちろん無人駅。 芭蕉と曽良は、堺田駅の西側を通り山刀伐峠へと向かったのである。。。。。

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2007年6月16日 (土)

刀切伐峠(山形県最上町~尾花沢市)を歩く

「究境(がっちりとした)の若者、反脇差指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携えて、我々が先に立ちて行く。。。。高山森々として一鳥声聞かず。。。。」 「おくのほそ道」より。 道中の最大の難所であった刀切伐峠越、元々は、一般の人々が通る道ではなく、修験者の通る道であった。

Cimg35401尾花沢市側の入口付近。ここから峠のトップを往復しても約1時間くらい。歴史の道として整備されている。

Cimg35262ブナやナラの木に覆われた気持ちの良い登山道が続く。 ここ刀切伐峠全体は、「出羽街道刀切伐峠越」として国指定の史跡になっている。

Cimg35313刀切伐峠のトップには、峠の目印となる子持ち杉の大木と子宝地蔵の祠、あと、「おくのほそ道」の一節を刻んだ石碑がある。
Cimg35364刀切伐峠の芭蕉と曽良!(笑) 峠の標高は470メートルである。たいした山ではないが、鬱蒼とした森林に覆われ、二十七曲がりと呼ばれる急斜面の登りになっいるため、芭蕉の時代(三百数十年前)には、とんでもない難所であった。

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2007年6月13日 (水)

山形県 最上川本合海~清川

鳴子の中山峠超え~山形の山刀伐峠超えでヘトヘトになった芭蕉は、尾花沢の豪商のもとで10日間も滞在し、これまでの旅の疲れを癒した。 そののち山寺(立石寺)に立ち寄り、羽州街道を北上し、最上川を下り、出羽三山へ向かったのであった。。。。

Cimg35091山形県新庄市の本合海。船着き場の上に、芭蕉と曽良の像が立っていた。芭蕉と曽良は、ここから船に乗り、最上川を下って行ったのである。

Cimg35062本合海の船着場。川なのに本合海!不思議な名称である。元々は、「合河乃津」と呼ばれていたらしい。。。。左手に、芭蕉と曽良の像と歌碑が小さく見える。

Cimg35123本合海の八向盾(山)。 このあたりの最上川は、複雑な地形のためか、大きく蛇行している。ここでも、八向盾(山)にぶつかり、ヘヤピンカーブを切って蛇行し、日本海へと流れて行く。。。。。

Cimg35004清川付近の最上川、日本海までは、16~18キロくらいか。。。最上川は、陸の街道と同じ扱いで、国境には番所が設けられていた。芭蕉と曽良は、清川で下船するが、ここでトラブルが起こってしまったらしい。。。。国境の役人にとって、芭蕉みたいな胡散臭い旅人は、かなり怪しい人物に見えたのでしょう!(笑)何とか上陸した芭蕉と曽良は、ここから出羽三山に向かったのである。

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2007年6月 6日 (水)

東京 両国~深川散策 Ⅱ

「行春や鳥啼魚の目は泪」 おくのほそ道 より

「是非、奥州塩釜の桜と松島のおぼろ月をみたいものだ。。。。」 と門人たちに話していた芭蕉は、すっかり旅にに魅せられてしまったようで、信州更科の旅を終えたばかりだといのに、もう次の奥州旅行に夢中になっていた。

Cimg33716小名木川に架かる万年橋。 この橋は、けっこう古くに架けられた橋で、アーチ式になっていたとのこと。葛飾北斎は、富嶽三十六景「深川万年橋下」として浮世絵にしている。
Cimg33784別所、採茶(さいと)庵跡。「おくのほそ道」出発前に、芭蕉が身を寄せていたところ。仙台藩ゆかりの仙台堀川沿いにある。  芭蕉庵跡から万年橋を渡り、三菱財閥岩崎弥太郎ゆかりの清澄庭園脇を通り、仙台堀に出た。ここからの道は、「芭蕉俳句の散歩道」として整備されている。


Cimg33733仙台堀川。この川沿いに仙台藩の蔵屋敷があったことから名づけられたとのこと。ちなみに、仙台藩の上屋敷があったのは汐留あたり、江戸屋敷があったのは南麻布で、今は韓国大使館になっているとのこと。ここには、「仙台坂」の地名が残っている。

Cimg33835深川江戸資料館近くにある滝沢馬琴誕生の地。 ここまで、両国駅から歩いても15分くらい。ちなみに、両国駅近くには吉良邸跡があり、吉良邸を襲撃した赤穂浪士一行は、隅田川沿いに、芭蕉記念館の脇あたりを通り、万年橋、永代橋を渡って、高輪の泉岳寺に向かったのである。。。。。。

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