前九年の役

2010年9月21日 (火)

前九年の役 河崎柵(かわさきのさく)跡

岩手県南部 一関(いちのせき)市川崎町門崎、すぐ近くを北上川が流れている。 河崎柵は、北上川東岸の自然堤防上に立地していて、安倍貞任(あべのさだとう)の義父である金為行(こんのためゆき、気仙地方を治めていた豪族)の柵であった。   源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ、)親子が、兵を率いて出陣したとの報を受けた安倍貞任は、この柵にエミシ軍の精鋭部隊4000騎を結集させたのである。  

Cimg6775河崎柵跡。  この柵跡は2003年に発掘調査されていて、幅4・5メートル、深さ1・2メートルの堀が見つかっている。北上川と、その北東側の山までの間を南北に約60メートルも延びていたという。朝廷軍の進入を遮断するための堀である。川と堀に囲まれた要塞だ。この地には、緊張感が漂っている。

Cimg6776岩手県一関市川崎町、北上大橋を望む。   安倍貞任率いるエミシ軍の精鋭部隊は、河崎の柵で雪が降るのを辛抱強く待っていた。 雪が降り続き吹雪になってきたので、チャンス到来とばかりに出陣したのである。この北上川沿いの道を進軍し、7キロほど南の黄海(きのみ)に陣を敷いていた朝廷軍に総攻撃をしかけたのである。。。。  余談ですが、ここ、一関市川崎町は、江戸時代末期から明治時代にかけ、「川の道」と呼ばれた北上川での船運事業で大いに栄え「東北の横浜」と呼ばれていたとのこと。 ちなみに、神奈川県川崎市の地名の由来は、岩手県一関市の川崎にあるらしいです。この説はかなり信憑性が高いとのこと。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月19日 (日)

前九年の役 黄海(きのみ)の戦い

1057年11月、エミシの豪族 安倍頼時(安倍貞任・宗任の父)が戦死したのを機に一気に安倍氏残党を殲滅しようと、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ、八幡太郎義家)親子は、約1800の兵を率いて国府多賀城を出陣した。目指すは、現在の岩手県最南部 宮城県と接する 東磐井郡藤沢町黄海(きのみ)。 源頼義は、論功行賞を早く受けようとして焦ったのか、かなり不利な雪の中での戦いになることを承知で出陣したのでした。 迎え撃つのは、安倍貞任(あべのさだとう)率いるエミシ軍の精鋭部隊4000騎!寒い冬の雪の中での戦いにも精通していた。  

Cimg6779「古代東北の英雄たち、黄海(きのみ)の戦い」の説明板。黄海地区の公民館にありました。     両軍は、ここ黄海(きのみ)の原野で激突した。 厳冬の吹雪のなかでの戦い、多勢に無勢、長期遠征による人馬の疲労、食料不足。。。。勝敗はすでに決まっていた。 一塊になって陣を張っていた朝廷軍を安倍氏の精鋭部隊4000騎が包囲し、一斉攻撃を仕掛けたのでした。

Cimg6783黄海川、北上川の支流である。 安倍貞任率いるエミシ軍と源頼義・義家率いる朝廷軍は、この川を挟んで対峙した。     朝廷軍は大敗を喫しました。戦死者は数百人にのぼり、参謀格の有力な武士を多数失う大打撃を受けたのです。 源頼義・義家父子は、わずか7騎になりながらも隙をついて包囲網を逃れ、やっとの思いで国府多賀城にたどり着くことができたのでした。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月27日 (日)

アラハバキ(荒覇吐)神を祀る神社 Ⅱ

我叡登挙(わかえとの)神社(月山神社)。  岩手県奥州市衣川区(旧衣川村)、衣川関や衣川柵の直ぐ近く、月山と呼ばれる小高い山にあります。ここも磐神社と同じ延喜式の神社であり、安倍氏の守護神アラハバキ神を祀っていました。  ちなみに、毎年仙台近郊で行なわれるロックの祭典「アラバキ(荒吐)ロックフェスティバル」は、この「アラハバキ神」から命名されました。

Cimg6761月山山頂にある社殿(拝殿)。 登り口には大きな鳥居と立派な社殿があります。ここから、急な階段等をしばらく登ると奥宮であるこの社殿が現れます。参拝道の途中にも社殿がありました。 やれやれ、社殿が四つもあります!(笑)---------------------------------------------------------------

Cimg6762御神体の奇岩。奥宮である社殿のさらに奥に小さな社殿があり、その前に御神体があったのです!!二重三重に守られている感じですね。ここまで登ってくる人は、ほとんどいないのでしょう。けっこう荒れていました。(涙)---------------------------------------------------------------------------

Cimg6738登り口付近に建つ標柱。 「奇岩を御神体とする荒覇吐神(安倍氏の守護神)を祀る」と書かれてありました。 遥か昔、東北地方の民全体の神だったというアラハバキ神は、坂上田村麻呂の侵攻によって邪教とされ、ことごとく排除されてしまったのであります。---------------------------------------------------

Cimg6767衣川柵付近から月山を望む。山の直ぐ下を東北自動車道が走っている。向かって左側方面に衣川関があります。小さな山ですが、けっこう急な斜面が続き一汗かきますね。(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月26日 (土)

アラハバキ(荒覇吐)神を祀る神社 Ⅰ

「磐(いわ)神社」です。 延喜式の神社で、岩手県奥州市衣川区(旧衣川村)、安倍氏の館跡の近くにあります。 元々は、エミシ・安倍氏の守護神であるアラハバキ(荒覇吐)神を祀っていた神社で、天然の巨岩を御神体としていました。巨岩は、アラハバキ神そのものではなく、神の宿る場所でありました。神は天から降りて来るのです。  当時、巫女は巨岩の前に座り、護摩壇に乳木を焚き、呪文を何度となく繰り返し、祈祷を始める。そして、神が天降る・・・・イタコの口寄せのような感じですかね? ここは、安倍氏の聖地であり、今で言う「パワースポット」です。強力なパワースポットです。間違いなし!私も強力なパワーをもらって来ました。(笑)  #Ⅱに続く。。。。

Cimg6750のどかな田園地帯にポツンと存在する神社であります。昔から御神体の巨岩のみで、社殿も本殿もない神社でしたが、明治になってから地域の人々の強い要望で社殿が造られたとのことです。-----------------------------------------------------------------------------------------

Cimg6754社殿の裏側にある御神体の巨岩。  案内板によると、幅は10m、高さ4mもあるとのこと。なんと、社殿なみの大きさだ!(笑)---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

Cimg6755御神体と社殿の一部が見えます。 アラハバキ神は、東北地方に多く残っている信仰で、ルーツは縄文時代まで遡ることができる という説もあります。 また、天孫民族(大和民族)が、我国に渡来する以前に、先住民族によって祀られた神である との説もあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月24日 (木)

前九年の役 史跡 一首(いっしゅ)坂

岩手県奥州市衣川区(旧衣川村)にあります。観光コースにも入っていて、けっこう有名な場所です。入り口には大きな案内板があり、駐車場も完備。 別に首が埋まってた場所ではありません。(爆)    衣川柵が落ち、鳥海柵に逃げる途中、安倍貞任とそれを追う源義家が歌を詠みあったという伝説の場所です。  岩手が生んだ国際人・ラストサムライ 新渡戸稲造は、英文で書かれた名著「武士道」のなかで、この有名なエピソードを引用している。 まあ、ここは、世界的にも有名な場所なんですね。(笑) 余談ですが、「武士道」の愛読者として、ルーズベルト、クリントン、ブッシュ大統領、エジソン等が有名です。

Cimg6710一首坂、詠み合った歌の碑と貞任石、義家石なんてのがあります。  『。。。昔の戦では、合戦の相手同士が当意即妙の応答をしたり、歌合戦を始めることは稀なことではなかった。合戦は、単に荒々しい戦闘力の問題だけではなく、知的な勝負であった。11世紀後半、ちょうどこのような戦いが、衣川の堤で行なわれた。東国の軍は敗走して、その将、安倍貞任も逃亡しようとした。そこに攻めてきた相手方の大将(源義家)が、貞任に向かって、大声で「きたなくも 後ろを見するものかな。しばし引かへせ。物いはん(ひとこと言いたいから少し待て)」とよばわった。そこで貞任が馬首を返すと、勝軍の将(義家)は、「衣のたては ほころびにけり」と即興に歌を読んだ (下の句を詠んで上の句を待った)。。。

Cimg6712一首坂の説明板。   。。。。すると、その声が終わらないうちに敗軍の将(貞任)は、「年をへし 糸のみだれの くるしさに」と詠み返した。(上の句をつけた)  弓を引き絞っていた義家は、突然その手をゆるめ、馬を引き返して、逃がしてやった。この理由をたずねられると、義家は、「敵にあのように激しくせめられながら、心の平静さをたもった人物に辱めを負わせることは忍びなかった」と答えたのである。。。。』 新渡戸稲造「武士道」より


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月23日 (水)

前九年の役 衣川の戦い

岩手県平泉町との境付近、岩手県奥州市衣川区(旧衣川村)にあります。このあたり一帯は、安倍氏の政治経済の中心であったとのこと。 衣川関(ころもがわのせき)は、道が狭くて険しく、函谷関にも引けをとらない関といわれ、 東側を北上川が流れ、南側を衣川が流れていて、さらに北側は山の絶壁が塞ぎ、まさに天然の要害になっていました。 1062年9月上旬、源頼義・義家親子率いる朝廷軍と出羽の清原氏の連合軍は、難攻不落と言われた衣川の関を、わずか一日で落とし衣川柵に迫りました。

Cimg6717衣川関の説明板。  衣川柵に篭り必死の反撃を行なう安倍貞任らに手を焼いた朝廷軍は、特殊部隊を柵の中に忍び込ませて放火するという奇襲作戦にでます。安倍勢は、この火災に驚き混乱状態になりました。 この隙に、朝廷軍は激しく攻め立て、 ついに柵は業火につつまれて陥落したのでした。

Cimg6724衣川関、直ぐ左側は東北自動車道である。  衣川関は、有名な枕詞にもなっていて、古来多くの歌に詠まれている。  「もろともに 立たましものを みちのくの衣の関をよそに聞くかな」 和泉式部  (私たちの仲が絶えていなければ、一緒に出発したものを。あなたが越えて行く陸奥の衣の関を、他人事として聞くのですね)

Cimg6743衣川柵跡(並木屋敷跡)。 このあたりが広大な衣川柵の中枢部分、安倍氏の政庁跡である。 安倍氏滅亡後は清原氏の館となり、桜並木に囲まれていたため、並木屋敷と呼ばれるようになったという。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年4月28日 (水)

前九年の役 鳥海柵(とのみのさく)跡

岩手県金ヶ崎町西根字鳥海、直ぐ側を東北自動車道が通っている。 安倍貞任(あべのさだとう)の弟、安倍宗任(あべのむねとう、鳥海三郎)の柵として知られている。ちなみに、安倍宗任は小柄ながら頭脳明晰、知略、軍略にすぐれていて安倍氏の軍師、司令塔だったのである。   1062年9月中旬、衣川の関破り、安倍氏の拠点衣川柵を落とし快進撃を続ける源頼義率いる朝廷軍は、戦略上の重要拠点鳥海柵を取り囲んだ。 しかし、鳥海柵は、もぬけの殻で、安倍宗任や藤原経清(ふじわらのつねきよ)等は盛岡の厨川柵に 逃げてしまった後だった。。。。柵の中で大量の酒を見つけた朝廷軍の兵士たちは、宴会をひらき勝利の美酒に酔いしれたという。

Cimg6541説明板。 直ぐ右側は東北自動車道である。東北自動車道の工事にともなう発掘調査で空堀、掘建柱建物群、地鎮祭などの儀式が行われた跡からは水晶の丸石などが発見されたという。--------------------------------------------------------------------------------------

Cimg6544鳥海柵の標柱。  源頼義は、こう着状態の続く戦況を打開するため、安倍頼良(あべのよりよし)を挟み撃ちにしようと考え、津軽を支配していた豪族安倍富忠(あべのとみただ)を調略し味方につけた。これに慌てた頼良は、富忠を説得しに津軽に向かうが、富忠の伏兵に弓矢による攻撃を受け、重症を負って本拠地の衣川を目前にして、ここ鳥海柵で息絶えてしまうのである。。。。奥六郡エミシの豪族 安倍頼良は、同じ奥州の豪族にの矢によって横死したのである。。。安倍頼良の跡を継いだのは安倍貞任であった。

Cimg6551県道脇にある案内板。直ぐ上は東北自動車道である。  ちなみに、鳥海山の山名の由来については、鳥海山麓一帯を支配していたのが安倍鳥海三郎宗任だったからという説が有力である。 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

前九年の役 阿久利川(あくとがわ)の事件(陰謀)

宮城県北部、岩手県と接する栗原市志波姫 阿久戸(あくと)の一迫川沿いにあります。鬼切部の戦い以降平静を保っていた安倍氏と朝廷側であったが、 ここで再び対立に発展する重要な「事件」が起こったのである。 1056年、陸奥守(むつのかみ、奥州の国府多賀城の長官)源義家(みなもとのよしいえ)の任期が終わる頃、義家の軍勢が胆沢城から多賀城に帰還する途中、阿久利川(現在の一迫川)河畔で野営をしていた時、部下である藤原光貞(ふじわらのみつさだ)の宿舎が襲われ、多数の兵士と馬が殺害されたという。

Cimg6459_5説明板と標柱。   藤原光貞は、これは安倍頼良(あべのよりよし)の長男である安倍貞任(あべのさだとう)の仕業だと、決めつけて訴えたのであ。なぜなら、貞任が自分の妹に求婚してきたときに「エミシである貞任に妹はやれない」と一喝したことを根にもっていたからだという。---------------

Cimg6467一迫川沿いから撮影。阿久利川は、いまもゆったりと流れていた。。。。この訴えを聞いた、陸奥守源義家は一方的に安倍貞任を差し出すことを命じ、安倍氏がこの命令を拒否したため、両者の間で、また戦いが始まったのである。-----------------------------------------------------

Cimg6471このあたりからの栗駒山の眺めは素晴らしい。栗駒山は栗原市のシンボルだ。   陸奥守源義家の一方的な嫌疑のかけ方と処罰の理不尽さに安倍頼良は、以下のような決意表明をし数万の大軍勢の朝廷軍に戦いを挑んでいったのである。 「人はこの世で妻子を思って生きている。貞任が愚かな子であったとしても親子の情として、ただ黙して誅(ちゅう、罪ある者を殺すこと)に服させることなどできぬ。それなら衣川の関を閉じての源義家の命令を拒否するほうがましだ。軍勢が攻めてきて一族決死の戦になることも悔いぬ。戦いに利もなく私が死ぬようなことになってもかまわぬ。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月23日 (月)

前九年の役 厨川(くりやがわ)の戦い(厨川柵跡)

岩手県盛岡市天昌寺町。東北自動車道 盛岡ICを下りて市内方面へ5~6分行ったところにあります。 ここ厨川柵は、安倍氏最後の拠点で、この地で前九年の役最後の戦いが行なわれた。   鬼切部の戦いに大勝利した安倍氏であったが、新たに朝廷から安倍氏討伐を命ぜられた源頼義と出羽の俘囚清原氏との連合軍に、徐々に追い詰められて行ったのである。 1062年9月下旬、連合軍(朝廷軍)が厨川柵に迫る中、安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らは、柵に立てこもる篭城作戦をとったという。厨川柵を包囲した朝廷軍の大部隊は一成攻撃を開始した。柵の中に雨あられのように矢や石を降らせ、最後に柵に火を放ち陥落させたという。

Cimg6261天昌寺の前、国道46号線沿いに説明板がありれます。  この戦いで安倍貞任は戦死し、宗任は捕らえられて京都に連行され、後に愛媛県に流されたという・・・・ちなみに、安倍貞任は身長180センチの大男で勇猛果敢な猛将だったらしい。 さらに、なんと、安倍貞任・宗任は、黄金の平泉文化を築いた藤原氏、藤原清衡(きよひら)の叔父にあたるのである。奥州藤原氏は、と大和武士とエミシのハイブリットということになるかな。(笑)  

Cimg6257天昌寺境内。 平安時代、安倍貞任が築城したといわれる厨川柵址。この柵のあった台地には、現在、天昌寺というお寺が建っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月21日 (月)

前九年の役 鬼切部の戦い(鬼切部城跡)

宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)高畑。 炎立つ奥州。。。。前九年の役 最初の合戦がこの地で行なわれました。 前九年の役とは、約1000年前、今の岩手県一帯を支配していた俘囚(エミシ)の安倍氏VS大和朝廷軍との戦いです。  1051年、国府多賀城を出発した1000を越える朝廷軍とエミシの豪族安倍頼良(あべのよりよし)の軍勢が、ここ鬼切部(おにきりべ)で激突しました。 安倍頼良の息子である安倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)率いる別働隊は、岩手県平泉近くの衣川の柵を出発し、祭畤(まつるべ)→須川経由で早春の栗駒山を越えて、花山(宮城県栗原市)→荒雄岳と進軍し、荒雄岳の山頂から怒涛のごとく朝廷軍に襲いかかった。。。。。これにより大和朝廷軍は、総崩れとなり安倍氏の大勝利に終ったのでした。。

Cimg6047鬼首(おにこうべ)高畑の高原にある説明板。  安倍貞任、宗任率いる別働隊が栗駒山を越える際、季節はずれの吹雪に見舞われて道を見失ったという。そのとき、白馬に乗ったエミシの英雄アテルイが現れて、鬼切部まで道案内をしたとのこと。。。。本当かなー。。。(笑)
 
Cimg6052鬼切部城址の高原。ススキの原野になっていた。正面には、ミニ谷川岳の禿(かむろ)岳が見える。まさに、奥羽山脈と川、沢に囲まれた天然の要害である。--------------------------------------------------------------------------------

Cimg6056国道108号線にある案内板。 ここから狭い道路をしばらく登ると広々とした標高500メートルの高原にでる。 眺望もよい清々しい高原である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)