ひめゆりの塔 ・ひめゆり平和祈念資料館・ひめゆり学徒散華の跡碑 (沖縄県糸満市)
平和祈念公園に3時間くらい滞在した後、車で7分くらいの距離にあるひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館に向かう。 ひめゆりの塔は、想像を絶する沖縄戦でなくなった、沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。 隣接する資料館では、生徒たちの戦前の日常生活や陸軍病院での想像を絶する過酷で命がけの体験を伝えています。
有名な 「ひめゆりの塔」
入口で花束を購入し、献花して手を合わせて祈りを捧げてきました。しばし黙とう!
ひめゆりの塔は、ガマ (鍾乳洞) と呼ばれる壕の上に建てられていました。
このガマ (鍾乳洞) は、当時、沖縄陸軍病院第三外科壕になっていたのです。ひめゆり学徒隊を含む約100人が避難していました。ガマを発見した米軍による再三の投降の呼びかけに、応じることはなかったそうです。そのため、米軍は、ガス弾や手榴弾を投げ込み80人が犠牲になったとのこと。生き残ったひめゆりの生徒によると、 「米軍による投降の呼びかけは、悪魔のささやきに聞こえた」 そうです。戦前の軍国主義的な洗脳教育には、強い憤りを覚えました。
ひめゆり資料館には、原寸大で再現したガマのジオラマがあります。ガマの中の構造を再現した実物大のスケールは圧巻。必見です。
隣接する、ひめゆり平和祈念資料館
資料館の入口は、ひめゆり学徒隊の学校「沖縄県立第一高等女学校」 の正門を模して造られています。
戦前に撮影された校長先生と生徒たちの記念写真 ここだけが撮影可でした。
特に、「ひめゆりの戦場」 と 「ひめゆりの証言映像」 のコーナーは、涙なくしては観ることができませんでした。
ひめゆり平和祈念資料館の中庭
ベンチに座り、 「琉球コーラ」 を飲みながらしばし休憩。
「ひめゆりの塔・平和祈念資料館」 に1時間30分くらい滞在したあと、車で15分の距離にある最南端の地 荒崎海岸の 「ひめゆり学徒散華の跡碑」 に向かう。 広大なさとうきび畑の中を、車が一台やっと通れる草ぼうぼう・デコボコの細い道を、慎重に運転してしばらく進んだ先には大きな駐車場。車を降りて、藪の中の細い道をしばらく降りて行くと、突然視界が開けて美しい景観の荒崎海岸が現れた。予想通り、ここには誰もいませんでした。いるのはわたくしだけ。 「こんなところまで来る観光客はいないだろう!」 と思っていたら、なんと、大阪から来たという一人旅の男性 (50代) がやってきました。 驚くとともに、なんか嬉しくなりましたね。 いろいろ話をして、 「デコボコの細い道でしたね。車で来るとき怖くなかったですか?」 と聞いたら、 「レンタカーは高いので、レンタルバイクで回っているから大丈夫!」 とその男性。 「なるほどレンタルバイクもあるのかー!」 と目から鱗でした。 駐車場に戻ったら、目の前に沖縄ナンバーの小型バイク。 「バイクで回るのもかっこいいなー! 」 と思いました。
ひめゆり学徒散華の跡碑 合掌!
慰霊碑には、この海岸に追い詰められて自決した、ひめゆり学徒隊の生徒たちと先生の名前、年齢、没年月日が刻まれていました。
死の恐怖に怯えながら壕を脱出したひめゆり学徒隊の生徒は、小さなグループに別れ、この辺りをさまよった。海からは暴風雨のような艦砲射撃、陸からは迫撃砲や銃で武装した米兵が迫る。荒崎海岸に追いつめられたグループは、米兵の銃撃を受ける中、教師1人と生徒8人、卒業生1人が手榴弾で自決したそうです。 「なんで投降しなかったのか?? 投降していれば全員助かったのに!!」 と思わずにはいられませんでした。 やはり、投降を呼びかけるスピーカー音は、悪魔のささやきに聞こえたのでしょう。 改めて、戦前の軍国主義的な洗脳教育には、強い憤りを覚えました。
今の美しい海岸を観ていると 全く信じられませんが、78年前 この美しい海岸はアメリカ軍の艦船に埋め尽くされ、投降勧告のスピーカー音が響き、海岸には死体がゴロゴロしていたそうです。
ひめゆり学徒散華の碑と荒崎海岸 撮影した動画を観てください。
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