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2014年11月13日 (木)

蛙のうた ~ 草野心平と宮沢賢治

草野心平もまた、高村光太郎や中原中也とともにマイナーな岩手の田舎詩人として、ほとんど黙殺されていた宮沢賢治を高く評価した詩人でした。 賢治の詩集「春と修羅」を読んだ心平は、感動し、驚き、「宮沢賢治さんは、天才だー!」と本気で褒めていました。 感激した心平は、さっそく賢治に手紙を出し、貧乏詩人仲間を集めて自身が主催していた同人誌「銅鑼(どら)」へ勧誘したのでした。直ぐに賢治は承諾し、「銅鑼」四号に詩(心象スケッチ)二編を寄稿しました。

Cimg6841花巻農学校に移築された羅須地人協会「賢治の家」。 農民を救済するために、本当の農民になるために、賢治は羅須地人協会を創設しました。     
当時の心平は、賢治と親しく音信を交わしてしていましたが、面識はなかったのでした。心平は、賢治が創設した羅須地人協会を小岩井農場のような、米国式の近代農場だと思い込んでいました。 そこで、賢治に頼んで、住み込みで働かせてもらおうと思い、花巻行きの汽車に飛び乗りましたが、汽車賃がなくて途中で降りてしまったこともあったそうです。心平らしい、なんとも間抜けな話です。(笑) 貧乏だったから仕方なかったのでしょう。(笑) 結局、心平は、賢治の死により、会う機会を永遠に失ってしまうのです。

Cimg6845「下の畑」。 ここは、北上川沿いの砂地でヤブ地の荒地でしたが、なんと賢治は、この地をたった一人で開墾したのでした。すさまじい情熱です。   
昭和8年9月22日、光太郎から 「賢治さんが亡くなった」 と告げられた心平は、居てもたってもいられなくなり、光太郎に借金をして花巻に向かったのでした。 仏前に焼香し、賢治の遺影を見た心平は、「賢治さんはこういう人だったのか」としみじみ思ったそうです。

Cimg6846賢治が開墾した「下ノ畑」。  
心平が想像した米国式の近代農場ではなかったのですが、大根、白菜などの一般的な野菜の他にも、トマトやアスパラガス、チューリップなど当時としてはかなり珍しい野菜や花も栽培していました。     
花巻に滞在中、賢治の実家で心平が見たものは、・・・・・賢治の家族によって整理された膨大な未発表原稿の山でした。花巻からの車中、心平は、「宮沢賢治追悼」の刊行、「宮沢賢治全集」を刊行しなければならない!と強く思ったそうです。 昭和9年に 「宮沢賢治全集(童話編)」 が出版されましたが、出版の実務を引き受けて東奔西走、走り回ったのは心平だったのです。 心平は、間抜けでしたが、かなりの情熱家でした。熱いです。(笑) この情熱家がいなければ、賢治が広く世に認知されるのも、かなり遅れたことでしょう。草野心平は、間抜けでおっちょこちょいでしたが、愛すべき詩人です。(笑)

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