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2011年11月

2011年11月23日 (水)

最上屋旅館 (宮城県白石市鎌先温泉)

白石市は、「戦国BASARA」の影響で、伊達政宗の腹心 片倉小十郎の城下町として全国的に有名になりました。片倉小十郎は、伊達家の「知略」の代表!政宗のブレーンでもあります。  鎌先温泉は、そんな白石市の郊外、南蔵王 不忘山の麓の谷に湧く温泉です。日本秘湯を守る会 会員の宿 「最上屋旅館」はこちらをどうぞ。 

Cimg1328最上屋旅館。 江戸期の旅籠旅館風な造りが印象的である。館内は、階段や手すり、柱などに、磨き抜かれた木をふんだんにを使っており、長い時の流れを感じさせてくれます。なにしろ、江戸時代の湯治宿としてはじまり、今でも自炊部の骨組みは江戸時代のままというから驚きである。  

Cimg1321玄関を入ったところ。 左手奥に、受付、売店、喫茶室があります。  旅館での食事は、夕食、朝食ともにお膳で部屋食!朝食まで部屋食なんて今どきめずらしいです。純和風なおもてなしという感じかな。(笑) 温泉は、源泉がぬるめのため、加熱しているようですが源泉掛け流しです。硫黄臭はなく、鉄分を含んでるために茶褐色に濁っています。多少ぬるめですが、長時間入っていることができ、体が温まります。鉄分を含んでるためでしょうか、湯上り後もいつまでも暖かくぽかぽかした感じでした。さすが!!古くから「奥羽の薬湯」とよばれただけのことはありますね。(笑)

Cimg1350鎌先温泉最古の宿 (創業550年)「湯主 一條旅館」。谷の一番奥にあります。これは大正時代に建てられたものだとか。今は自炊部になっているのかな? でもご安心下さい。この奥には、超近代的な新館がど~んと立派に建っています。(笑)

Cimg1349最上屋旅館を望む。 正面の障子戸が開いてるところが泊まった部屋です。(笑) #この日は寒かった。夜にはみぞれが降ってきました。    鎌先温泉には、狭い谷の土地に「湯主 一條旅館」を筆頭に江戸期に創業した「最上屋」、「鈴木屋」、「木村屋」の木造二層三層の旅館が軒を連ねて建ち並んでいる。 

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2011年11月17日 (木)

聖地巡礼(笑) ⅩⅡ「石と賢治のミュージアム」

旧東北砕石工場と同じ敷地内にあります。(岩手県一関市東山町)  石っこ賢さんをキーワードに科学者 宮沢賢治が見ていた自然の不思議を分かりやすく見学できます。   『「みんなのほんとうの幸せ」を求め、理想郷創造にまい進した技師時代の賢治と工場主 鈴木東蔵の心と生き方に触れ、これを次世代の子どもたちへと永く語り継いでいきたい。そんな思いから生まれたミュージアムです。」 「石と賢治のミュージアム」パンフレットより。#「石と賢治のミュージアム」(一関市のホームページ)はこちらをどうぞ。

Cimg1301「石と賢治のミュージアム」。  このミュージアムは「太陽と風の家」とも呼ばれています。 ここには、羽が太陽光パネルでできている小さな風力発電用の風車があるのです。もちるん太陽光発電もできます。すごいですね!  宗教学者であり評論家でもある山折哲雄さん(母親の実家が岩手の花巻市で、なんと賢治の実家の近くだそうです)は、こう言ってます。 「賢治という人間は風と共に誕生し、光のような風の波に乗ってこの世を去っていった。賢治の詩も童話も、その本来のあり方においては風が吹いて話がはじまり、風か吹いて終息に向かう・・・・」と。 なるほど、言いえて妙です。 #風の又三郎は賢治自身だったのかもしれませんね。(笑)

Cimg1313「鉱物展示室」。#いや~、すごく癒されました。(笑)  賢治の詩や童話には、水晶、雲母、蛋白石、紅宝玉、瑠璃、石英、安山岩、蛇紋岩等々、多くの鉱物や岩石の名前が登場します。。。。。賢治の詩集「春と修羅(第一集)」が出版された時、「宮沢賢治は地質学、鉱物学、気象学、植物学で詩を書いた!」と驚かれたのでした。 

Cimg1305有名な「雨ニママケズ手帳」、もちろんレプリカであります。(笑) 本物は花巻の宮沢賢治記念館の収蔵庫に厳重に保管されています。なんと、宮沢賢治記念館に展示されているのもレプリカなのです。 賢治は、病気でボロボロの体なのに、大量の石灰肥料のサンプルを抱えて、無理をして東京まで営業に出かけ、そのまま倒れてしまったのです。なんという気力、精神力でしょうか。その後、花巻に戻り病床生活を送ったのでした。 もっと工場のため、農民のために働きたかったのでしょう。もっと丈夫な体だったら!と何度も思ったことでしょう。 そんなとき、ふとでてきてのがこの詩だったのかもしれませんね。賢治のつぶやきと言ってもいいです。

Cimg1319大船渡線 陸中松川駅から東北砕石工場までは一本の道があります。技師時代の賢治が歩いた道として「デクノボーの道」、「雨ニモマケズの道」と呼ばれています。  賢治のようなアバンギャルドでハイセンスな理想主義者、宇宙的ロマティストには、多くの挫折が待っています。理想には挫折が付きものです。  しかし、賢治には、辛い絶望的な現実にさらされていない詩と童話の世界があったのです。賢治の書いた詩と童話は、次世代へのメッセージとも言えるでしょう。


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2011年11月15日 (火)

聖地巡礼(笑) ⅩⅠ「旧東北砕石工場」

「旧東北砕石工場」は、岩手県南部 一関市東山町にあります。産業近代化遺産 (国登録有形文化財) として登録されていて、現在は整備され「石と賢治のミュージアム」の一部になっています。  「東北砕石工場」とは、石灰岩を粉砕して石灰肥料作るための工場です。石灰肥料は、農地を改良し、耕作面積を広げ、収穫を増やし、冷害に襲われる東北の農民を救うために必要なものでした。晩年の宮沢賢治が技師として勤務し 東奔西走、活躍した工場としても知られています。

Cimg1296「旧東北砕石工場」。    昭和4年頃、工場主の鈴木東蔵は、土地改良のための肥料の研究をしているという賢治を知り、花巻まで訪ねて来たのでした。東蔵は、賢治にこう訴えましました。「東北砕石工場は、賢治さんが考えている土壌の改良には必要なもので、農民に安くて大切な肥料を大量に供給することができます。しかし、工場への注文は少なく、経営は苦しいのです。賢治さん、是非 技師として手伝って下さい」と。 賢治は、どうしても工場を救ってやりたくなったのです。 そして、二人は意気投合した!!

Cimg1318東北砕石工場からは、大船渡線陸中松川駅まで、製品を運び出すトロッコ軌道があった。それと並行して大船渡線の線路が走っている。  このあたりは北上山地の南部にあたり石灰岩の大地が広がっています。猊鼻渓(げいびけい)や幽玄洞という鍾乳洞も近くにあります。石灰岩の大地に建つ工場!工場の立地としては最高ですね。 
 
Cimg1298宮沢賢治と東北砕石工場の人々。  賢治が工場を訪れたとき、工場主の鈴木東蔵や工場の人々と記念写真を撮りました。工場わきの「群像のひろば」には、そのときの写真をもとにした群像(ろう人形)がつくられています。後列右から4人目が賢治で5人目が鈴木東蔵です。

Cimg1294「旧東北砕石工場」。   井沢元彦氏の歴史ミステリー「義経はここにいる」は、お勧めです。舞台は、今話題の平泉 中尊寺金色堂など岩手がほとんどで、藤原氏のミイラの謎、義経の残した秘宝などに義経北行説を絡めて殺人事件の謎を解いていく展開。盛りだくさんの内容で読みごたえがあります。 さらに、なんと、この本には、東北砕石工場時代の宮沢賢治も登場するのです。これにはびっくりです。(笑) しかも、冒頭から登場します。 「プロローグ   荒野の詩人   星降る荒野に一人いる。トランクを片手に、オーバーコートにソフト帽、ネクタイをしめた彼の表情は明るい。天の銀河と、地の連山、その山々に白く細い道が続く。 広い天地に唯一人、彼は北を目指した。(義経もこの道を行った・・・・) 山の彼方に目的がある。 黄金、義経の秘宝。探すのは私利私欲のためではない。凶作に泣き、娘を売らねば生きてはゆけない農民を救うためだ。 (中略)  病魔が彼をむしばんでいる。仰向けに倒れた彼の手から、茶色のトランクが落ち、留め金がはずれた。 中からこぼれでたのは石灰肥料のサンプル、そして名刺の束・・・・・。 そこには次のように書かれてあった。東北砕石工場 技師 宮澤賢治  昭和6年(1931年) 冬のことである。」 井沢元彦著 「義経はここにいる」 より。 #「義経はここにいる」はこちらをどうぞ。

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2011年11月13日 (日)

「風の又三郎」

『どっどど どどうど どどうど どどう  青いくるみも吹きとばせ  すっぱいかりんも吹きとばせ  どっどど どどうど どどうど どどう』 の書き出しで始まる宮沢賢治の有名な童話であります。 賢治の死後発表された作品で、「銀河鉄道の夜」と同様未完成だったようです。「永久の未完成これ完成である」ですね。(笑)    9月の初め、風が強くなる季節に転校してきた少年 高田三郎と山の分校の子どもたちとの交流を描いています。 分校の子どもたちは、三郎のエキセントリックな言動や行動に戸惑いながらも、刺激的な遊びや事件を通して友情を深めて行くのであります。しかし、三郎は、わずか12日間居ただけで、分校の子どもたちに強烈な印象を残し、風のように去ってい行くのであります。。。。。    物語の中の会話は、ほとんど方言だけで行われていますし、突然文章が飛んでるところはあるしで、少々難解な童話です。   「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」、「なして泣いでら、うなかもたのが。」、「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水飲んでぐ。」、「又三郎うそこがなぃもな。」等々、東北の人が読んでもよく分からない部分が多いです。声にだして読んでみて、「なんだ、こう言ってるのかー!」とやっと理解できる部分も多いですね。(笑) #「風の又三郎」はこちらをどうぞ!
 
Cimg1284種山ヶ原にある「風の又三郎」の像。後方に見えるのが物見山(871メートル)です。雨量観測所の白い建物が見えますね。   この魅力的な物語は、どこで繰り広げられたのでしょうか?物語には、種山ヶ原の「た」の字も出てきませんし、種山ヶ原あたりの地名も登場しません。しかし、種山ヶ原を暗示させるキーワードが多く出てきます。「上の野原」、「馬の牧場、放牧場」、「高原から流れ出る多くの渓川」、「物見山の山頂付近に展開する残丘のような大きな黒い岩」などです。これらのことから「風の又三郎」は、種山ヶ原を舞台にした物語だと言えますね。 もう一つ決定的なものがあります。それは、「モリブデン」、「モリブデン鉱山」という言葉が登場することです。地質学者でもあった賢治は、鉱物や岩石に関する豊富な知識がありました。 高田三郎の父は、鉱山技師でモリブデンの鉱石がでるという「上の野原」の鉱山を開発するためにやってきたのです。こんな記述があります。先生と生徒の会話です。 『「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」「どこらあだりだべな。」 「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」「モリブデン何にするべな。」「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」』 ご存知のように、モリブデンと言えば「モリブデン鋼」、高級包丁などに使われる最高級のステンレスですね。「薬」というのは、肥料のことのようです。しかも、稲作にはかかせない肥料になるとか。さすが、科学者 賢治!すごい知識ですね。(笑) 実際、賢治は、盛岡高等農林学校時代の大正6年に、学友たちと一緒に種山ヶ原一帯の地質調査を行っているそうです。そして、なんと、モリブデンを含む鉱脈を発見したのです!!以後、賢治は何度も種山ヶ原を訪れています。 #う~む、やっぱり、「風の又三郎」の舞台は種山ヶ原ですね!(笑)

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2011年11月10日 (木)

聖地巡礼(笑) Ⅹ 「種山ヶ原」

『種山ヶ原といふのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩(かんらんがん)からできてゐます。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五六軒づつの部落があります。。。。。』 宮沢賢治 「 種山ヶ原」より    岩手県住田町、遠野市、奥州市にまたがる広大な高原、種山ヶ原の最高点、物見山(871メートル)に登ってきました。登ったと言っても、遊歩道を往復2時間くらい歩き回っただけですが。。。。(笑)   賢治の童話 「種山ヶ原」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」の舞台としても知られ、賢治がこよなく愛した景観は、国の名勝「イーハトーブの風景地」に指定されている。 #スタジオ ジブリのアニメ「種山ヶ原の夜」はこちらをどうぞ。

Cimg1266山頂には雨量観測所の建物がありました。 ここは、広大な種山ヶ原の中心であります。広大な準平原 種山ヶ原のすべてを見渡せます。遠くには、早池峰山、五葉山などが、何とか確認できました。#ちょっと雲が多かったなー。。。残念!

Cimg1271_2山頂付近の残丘(モナドノックス)。このあたりでは、いたるところに「残丘(モナドノックス)」が見られます。  遠く後方に見えるのが「種山高原 星座の森」で、ログハウスのコテージやオートキャンプ場などの施設があります。  種山ヶ原は、内陸と三陸海岸との境界にある高原のため年中風が吹いている場所だという。この日も山頂付近は風が強かった。なるほど!まさに「風の又三郎」の舞台にぴったりですね。(笑)

Cimg1274山頂付近にて。これも残丘(モナドノックス)か?  なんとこの種山ヶ原周辺にも、あの坂上田村麻呂伝説があるのです。いやー、東北にはいたるところに田村麻呂伝説が残っていますね。(笑)    エミシ軍を率いる人首丸(ひとかべまる)と田村麻呂率いる朝廷軍の最後にして最大の戦いがあった場所だったとか。当然のことながらエミシ軍は惨敗し、人首丸は処刑されました。墓は、奥州市側になりますが、人首町(ひとかべまち)というところにあるそうです。 賢治も 「人首町(ひとかべまち)」という詩を残しています。

雪や雑木にあさひがふり   丘のはざまのいっぽん町は 
あさましいまで光ってゐる   そのうしろにはのっそり白い五輪峠
五輪峠のいたゞきで   鉛の雲が湧きまた翔け
南につゞく種山ヶ原のなだらは   渦巻くひかりの霧でいっぱい  
つめたい風の合間から   ひばりの声も聞えてくるし
やどり木のまりには艸いろのもあって  その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある

Cimg1269物見山(山頂)を望む。 種山ヶ原は、森林も少なく昔から天然の放牧場として利用されてきました。伊達藩(このあたりは南部藩と伊達藩の堺)の馬牧場とて利用されたのが最初でした。戦時中は大量の軍馬の放牧場として貴重な存在だったそうです。    『春になると、北上の河谷(かこく)のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此この部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまふのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。放牧される四月(よつき)の間も、半分ぐらゐまでは原は霧や雲に鎖とざされます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気しっきのお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行ゆく旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑を見るやうになります。その旅人と云いっても、馬を扱ふ人の外(ほか)は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅(わずか)なものでした。』 宮沢賢治 「種山ヶ原」より

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2011年11月 2日 (水)

「フェルメールからのラブレター展」 宮城県美術館

もう二度と日本では見られないだろうと思い、早めに行ってきました。けっこう混雑していました。美術館前の広い駐車場は満車状態で、少し離れたところにある第二駐車場に行ってくれとの指示でした。岩手、山形、福島など他県ナンバーの車も多くありましたね。土日祝祭日には、周辺道路は大渋滞になるかもです。やれやれ。(笑) 「フェルメールからのラブレター展」公式サイトはこちらです。

Cimg1237今年で開館30年を迎える宮城県美術館。仙台市青葉区川内にあります。  「フェルメール展」初日には、なんと50人が列をつくりました。連日多くのファンでにぎわっています。 なんと、公開は、京都、仙台、東京のみなのです。ふつうなら、京都、名古屋、東京とかなりまいよね。ありえないことです。(笑) 東日本大震災の影響からですかね? まあ、とにかく仙台で見られて良かったです。

Cimg1242「手紙を読む青衣の女」 修復後の公開はこれが初めてだ。当時は超高価な鉱物だったラピラズリから作られた顔料(
ウルトラマリン)で描かれているという。感動ものだった。やはり本物は素晴らしい。誰もが目を奪われるブルー、1度見たら忘れられないブルー!「フェルメールブルー」がよみがえった!  「フェルメールブルー」の元になったラピラズリの鉱石とそれからとれた顔料(ウルトラマリン)も展示されていました。この「青」は多くのフェルメールの作品でみ見られるという。当時は超高価だったラピラズリをふんだんに使ったということは、フェルメールはかなり金持ちだったのかもしれませんね?(笑)    話は変わりますが、ラピスラズリ(和名 瑠璃{るり})というと、宮沢賢治の詩にも登場します。「銀河鉄道の夜」につながっていく幻想的な詩です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天のる璃の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。「青森挽歌」 春と修羅-心象スケッチ-第一集より

賢治は妹トシの魂を求めて真っ暗な銀河の中を走っている。
そんな愛する妹と、賢治はいまだって交信することができる。
トシがどんな世界へと旅立っていったのか、それがトシ女自身から知ることができる。
トシは天の瑠璃の地面に立っている。

フェルメールの作品は、完成度が高い傑作とされる「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女」「手を書く女と召使」の3点が出品されている。もちろん、東北では初めての公開である。 フェルメールは、多くの謎に包まれた画家だという。誰に学んで修業したのかも分からず、修業時代のデッサンも作品もなく、作品も文献も極端に少ないのです。それゆえ贋作事件や盗難事件が後を絶たなかったとか。突然、完成された作品30点を残して消えていったのです。なんか、日本の謎の絵師 写楽みたいですね。(笑)


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