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2011年10月22日 (土)

藤村広場 Ⅱ(仙台市宮城野区)

藤村、若干24才は、明治28年ころ東京の明治学院で英語の教師をしていた。教え子との恋に破れ、親友である北村透谷の自殺などにより、東京に住むのががいやになったのでした。東北学院の招きもあり、英語の教師として来仙し東北学院で教鞭をとったのでした。

Cimg1220藤村の下宿先 三浦屋があった場所。 今はなぜか神社になっていました。 この下宿で「若菜集」の詩が書かれたのです。 「。。。。仙台の名影町(名掛丁)というところに三浦屋という古い旅人宿と下宿を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣りに石屋がありまして、私がその石屋と競争で朝も早く起きて机に向ったことを憶えています。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞えて来ました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。」 島崎藤村著 「市井にありて」 より    当時、この下宿の東側一帯には、ほとんど建物とかがなかったのでしょう。もちろん騒音もなかった。若林区荒浜あたりの潮騒が聞こえていたのでしょうね。今では想像がつかないですね。(笑)

Cimg1215JR仙台駅東口の駅前広場から藤村広場方面に進む歩行者専用の小路が「初恋通り」と名付けられいる。   「。。。。仙台の東北学院の教師として出かけることになって、旅も出来れば母への仕送りもいくらか出来るという始末であったのです。あの時は寂しい思いで東北の空へ向いました。着物なぞも母の丹精で見苦しくない程度に洗い張したもので間に合せ、教師としての袴は古着屋から買って来たもので間に合せました。荷物といっても柳行李一つで、それも自分があつめた本を大事にいれて行くぐらいなものでした。上野から汽車で出かけて、雨の深い白河あたりを車窓から見て行ったときの自分の気持は、未だに胸に浮んで来ます。そんなに寂しい旅でしたけれども、あの仙台へついてからというものは、自分の一生の夜明けがそこではじまって来たような心持を味いました。実際、仙台での一年は、楽しい時であったと思います。。。。」 島崎藤村著 「市井にありて」 より    仙台へは、ブルーで、へこんで、滅入って、都落ちという感じでやって来たのでしょう。(笑) でも、仙台での生活は、希望に満ちて、充実して、楽しい日々だったようです。

Tousonsendai27w明治期の東北学院(大学) 。 東北学院大学は、プロテスタント系のミッションスクールで、東北地方では最大規模、最も有名な私立大学である。東北各地や北関東からも学生を集めている。明治初期に私塾「仙台神学校」として開校し、数年後に東北学院と改称した。 島崎藤村が赴任してきたのは、この写真の頃でしょう。 #大学の出身者で有名人は、プロ野球の岸投手(西武)、鈴木京香、さとう宗さん、大友康平などか。。。  


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 東京の明治女学校高等科で英語科教師をしていた藤村、島崎春樹。東北学院の招きもあり仙台へ赴き、同校で教鞭をとったのは明治29年。    教え子との恋に破れ(その数年後に病没、永遠の別離となった...... [続きを読む]

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