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2010年10月 7日 (木)

国府 多賀城 Ⅰ

国府多賀城は、奈良県 平城京、福岡県 大宰府とともに日本三大史跡の一つになっていて、遠の朝廷(とおのみかど)として、軍事のみならず政治の拠点して栄えた古代都市であった。。。。。だだ、三大史跡の中で知名度が低いのは多賀城でしょうねー。。。、奈良 平城京は、「ナントきれいな平城京」で、 当時の日本の中心で、もっとも美しい都だったということで、日本中から多くの観光客が集まってくる。太宰府には、学問の神様 菅原道真が祀られている超有名な太宰府天満宮がある。 それに比べ多賀城は。。。(笑)

Cimg0016多賀城 南門跡地。エミシの豪族 伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼き払われという。多賀城が攻撃されたのはあとにも先にもこれが初めて。大和朝廷を震撼させた反乱でもあった。    大宰府には、国境警備隊として防人(さきもり)が配備されいてた。防人は、武人・軍人ではなく屯田兵みたいなものである。陸続きではく、目の前には海が広がっている。当然、緊張感はなく、名ばかりの国境警備隊であった。しかし、多賀城は違う。「まつろわぬ民」、政治的、軍事的抵抗集団エミシの支配する土地と地続きの多賀城は、漂っている緊張感が全然違うのである。多賀城に配備されていたのは、朝廷の命を受けた坂東武者の精鋭部隊であった。

Cimg0019多賀城 南門跡地にある説明板。   多賀城の正面に位置するこの門は、豪華絢爛で多賀城のシンボルの一つであったらしい。平城京で言えば朱雀門ですね。#復元してくれないかなー。。。(笑)  多賀城、最近では「ミニ平城京」と呼ばれており、大宰府が九州地方を統括する官庁だったように、ここは東北地方全体を統括する官庁であった。政治・軍事の拠点として栄えた多賀城、常時一万人もの人々が暮らす「北の都」でもあった。

Cimg0020南北大路中間部。今は住宅街の中を通っている。この先に南門、多賀城の中心部政庁跡がある。長さ350メートル、幅18~23メートル、多賀城の南門へ向かう大規模な道路であった。 かなり狭くなってしまったが少し 復元されいてる。     遥か1300年前からの・・・・・勃興と瓦解、栄光と悲惨、繁栄と衰退、生と死・・・とめどない幾世紀・・・・・やっぱり古代史跡はいいなー!(笑)

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