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2010年10月

2010年10月29日 (金)

天元台スキー場に初雪!

山形県米沢市天元台スキー場、けっこうな積雪がありました。なんと、北海道では黒岳スキー場が、今週末にプレオープンするようです。10月にオープンするのは6年振りだとか。 暑い夏の年には、寒い冬が来るというジンクスがあります。今シーズンは3年振りに「秋」に滑れるかも?です。快挙ですね。ワクワクしますね。(笑) 前回、秋にすべったのは3年前の11月末でした。 #こちらをどうぞ!  
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2010年10月23日 (土)

野田の玉川 おもわくの橋 (宮城県多賀城市)

1689年、芭蕉もここを訪れている。 歌枕の六玉川(むたまがわ)の地として有名であった。ちなみに、六玉川とは、野田の玉川(宮城県多賀城市)、野路の玉川(滋賀県草津市)、調布の玉川(東京を流れる多摩川)、井手の玉川(京都府井手)、 三島の玉川(大阪府高槻市)、高野の玉川(和歌山県高野山)である。  仙台から多賀城~塩竃にかけては、古来多くの歌枕の地があった。「宮城野」、「十符の菅」、「壺の碑」、「末の松山」、「沖の石」、「浮島」、「塩竃」・・・・、芭蕉と曽良は、これらの歌枕の地をすべて訪ねているのである。 

Cimg0033野田の玉川に架かる「おもわくの橋」、ここも歌枕の地である。  「おもわく」とは人の名前である。この地には、前九年の役のヒーロー安倍貞任にまつわる伝説が残されている。 前九年の役が勃発する前、大和朝廷とエミシの関係は良好であった。エミシからの朝貢も行なわれ、多くのエミシたちが多賀城に出入りしていた。 この時、エミシである安倍貞任と多賀城の役人の娘である「おもわく」が知り合い、恋仲になったという。 「おもわく」の家のある紅葉山に通うために、貞任はこの川に橋をかけさせたのである。このことから「おもわくの橋」、「安倍の待ち橋」と呼ばれるようになったという。

「踏まば憂(う)き 紅葉(もみじ)の錦散りしきて 人も通わぬ おもわくの橋」( 西行法師 山家集より)

Cimg0035現在の野田の玉川、ほとんどが暗渠になっていて川が見えない。このあたりだけが、なんとか川の状態を保っている。川というより堀である。 当時は、この先が直ぐ海だったという。干潟が広がり、さざなみが立ち、潮風がふき、浜千鳥が群れをなしてたたずんでいたのだろう・・・・・・芭蕉が訪れた江戸時代前期には、すでに当時の景観は失われていたのである。(涙)

「夕されば汐風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥鳴くなり」能因法師 (新古今和歌集より)

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2010年10月19日 (火)

「白銀ジャック」 東野圭吾

10月に、「実業之日本社文庫」シリーズが創刊されました。その中の目玉作品がこれです。本の帯にも書いてありましたが、いきなり文庫化された作品なんですね。まことにありがたい企画です。(笑) 
さて、この作品、「白銀ジャック」ですが、スノーボーダーであり、スキーヤーでもある東野圭吾さんでなければ書けない作品ですね。ミステリーというよりサスペンスです。スピーディーな展開でテンポも非常にいいです。まるで、スノーボードやスキーで疾走してる感じです。圧倒的なドライブ感。 あっ、という間に読んでしまいましたね。(笑)  構成もいいですね。広げた伏線が最後にはすべてつじつまがあうようになってます。なるほど、と納得させられます。「意外な展開」、「予想外の結末?」という感じか。。。。東野圭吾さんらしいオチをつけてくれます。(笑)  
スノーボードやスキーの滑走シーン、追跡シーン、スノーボードでのストレートジャンプ、スピンジャンプのリアルな描写には驚きました。映像が目に浮かぶようです。   
また、長引く不況やレジャーの多様化、最近のインドア志向等によるスキーやスノーボード客の減少。スキー場の経営難。リゾートスキー場の問題。地方の振興と疲弊などが重要なテーマになっています。ラストは、ありえないほどのハッピーエンド!読んでるほうがはずかしくなってきますね。(笑)   #「白銀ジャック」はこちらです。

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2010年10月15日 (金)

吾妻連峰 Ⅱ(福島県福島市)

吾妻連峰、標高の割にはなだらかな山が多く、多くの湿原や湖沼があり、高山植物が咲き荒れる。温泉も多く、谷間にひっそりと湯煙を上げる素朴な温泉宿は人気の的だ。  浄土平(7:40発)→一切経山(8:50着)→鎌沼→東吾妻山(10:40着)→浄土平(12:10着)休憩含む。約4時間30のトレッキングでした。

Cimg0080一切経山からの下山途中、これから向かう東吾妻山(1975メートル)を望む。一切経山とは違い全山樹林帯に覆われている。 遥か下の方に酸ヶ平避難小屋とその先に木道の分岐点が見える。分岐点を右側に進み、鎌沼の西側を迂回して登山道は続いている。

Cimg0075鎌沼と酸ヶ平の湿原を望む。 秋色に染まる湿原と池塘、黄金色の草モミジ。夏から秋へのストーリー、樹林帯の緑とのコントラストがいい。---------------------------------------------------------------------------------------

Cimg0112鎌沼は、その名の通り「鎌」の形(三日月の形)をした、広い火口原湖です。沼の東側に沿って木道が続いている。静寂さが漂う沼を見ながらのトレッキングは爽快だ。湖面を渡る風が心地よい。ここは風の通り道か・・・・・・?---------------------

Cimg0116東吾妻山(1975メートル)山頂、後方には、一切経山が見える。   山頂へは樹林帯の中を30分ほど登る。山頂近くはハイマツ帯になっていて展望が開けている。噴煙の立ち昇る一切経山、吾妻連峰、飯豊連峰等、山頂からの展望は最高でした。残念ながら磐梯山方面の眺望は雲がかかりダメでしたが。。。(涙)  吾妻連峰は歩く距離は長いが、飯豊や朝日連峰等のようなタフな急斜面の登りもほとんどない。中高年登山者に人気の山域でもある。


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2010年10月14日 (木)

吾妻連峰 Ⅰ(福島県福島市)

吾妻連峰東部、磐梯吾妻スカイラインの浄土平から一切経山(いっさいきょうやま、1950メートル)~東吾妻山(1975メートル)をトレッキングしてきました。 汗ばむほどの陽気、天候にも恵まれ快適なトレッキングができました。 スカイライン周辺の紅葉は、ちょうど見ごろでした。浄土平は、平日だというのに多くの観光客であふれていましたね。 #Ⅱに続く・・・・・・・

Cimg00591磐梯吾妻スカイラインンから望む一切経山。今でも激しく噴煙上げている。山岳信仰が色濃く表れている山名ですね。 名前の由来は、前九年の役のヒーロー安倍貞任が仏教教典の一切経を山に埋めたという伝説によるとか。また、弘法大師空海が山頂に埋めたとの言い伝えもあります。安倍貞任と仏教?・・・なんか違うような気がしますが(笑)・・・私的には空海が埋めたという説を支持したいですね。(笑)

Cimg00662_2一切経山への直登コースは立ち入り禁止、閉鎖されていた。ジェット機の騒音ような音とともに激しく噴煙を噴き上げている。 今年の春頃に、大穴と呼ばれる噴気口周辺の地熱の温度が急上昇し、噴煙が激しくなり、危険になったためだという。#噴火の前兆か・・・?

Cimg00911一切経山山頂から望む五色沼。 「吾妻の瞳」、「魔女の瞳」とも呼ばれている。まさに、「魔女の瞳」、深い藍色の湖面、魅惑的だ。吸い込まれそうだ。(笑)    「五色沼」、古くは「雷沼」と呼ばれていて、水神の棲む沼として信仰を集めていた。山岳信仰が盛んだったころ、この沼の畔には「東屋沼(あずまやぬま)神社」があり、雨乞いの儀式が盛んに行なわれていたという。ちなみに、現在、東屋沼神社は福島市内に移されている。   

Cimg00854_2一切経山(1950メートル)山頂。 吾妻連峰西部、浄土平の吾妻小富士等の眺望が良い。 この山の山頂一帯は、荒涼とした悲傷の大地が広がる。緑がない。どこにもない。    「一切の諸仏緒尊をこの聖域に召請して金胎両部の姿をたどり・・・・・・」 古代の人たちは、この山頂一帯を祖霊の鎮まる聖域と考えていたのだろう。

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2010年10月 7日 (木)

国府 多賀城 Ⅰ

国府多賀城は、奈良県 平城京、福岡県 大宰府とともに日本三大史跡の一つになっていて、遠の朝廷(とおのみかど)として、軍事のみならず政治の拠点して栄えた古代都市であった。。。。。だだ、三大史跡の中で知名度が低いのは多賀城でしょうねー。。。、奈良 平城京は、「ナントきれいな平城京」で、 当時の日本の中心で、もっとも美しい都だったということで、日本中から多くの観光客が集まってくる。太宰府には、学問の神様 菅原道真が祀られている超有名な太宰府天満宮がある。 それに比べ多賀城は。。。(笑)

Cimg0016多賀城 南門跡地。エミシの豪族 伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼き払われという。多賀城が攻撃されたのはあとにも先にもこれが初めて。大和朝廷を震撼させた反乱でもあった。    大宰府には、国境警備隊として防人(さきもり)が配備されいてた。防人は、武人・軍人ではなく屯田兵みたいなものである。陸続きではく、目の前には海が広がっている。当然、緊張感はなく、名ばかりの国境警備隊であった。しかし、多賀城は違う。「まつろわぬ民」、政治的、軍事的抵抗集団エミシの支配する土地と地続きの多賀城は、漂っている緊張感が全然違うのである。多賀城に配備されていたのは、朝廷の命を受けた坂東武者の精鋭部隊であった。

Cimg0019多賀城 南門跡地にある説明板。   多賀城の正面に位置するこの門は、豪華絢爛で多賀城のシンボルの一つであったらしい。平城京で言えば朱雀門ですね。#復元してくれないかなー。。。(笑)  多賀城、最近では「ミニ平城京」と呼ばれており、大宰府が九州地方を統括する官庁だったように、ここは東北地方全体を統括する官庁であった。政治・軍事の拠点として栄えた多賀城、常時一万人もの人々が暮らす「北の都」でもあった。

Cimg0020南北大路中間部。今は住宅街の中を通っている。この先に南門、多賀城の中心部政庁跡がある。長さ350メートル、幅18~23メートル、多賀城の南門へ向かう大規模な道路であった。 かなり狭くなってしまったが少し 復元されいてる。     遥か1300年前からの・・・・・勃興と瓦解、栄光と悲惨、繁栄と衰退、生と死・・・とめどない幾世紀・・・・・やっぱり古代史跡はいいなー!(笑)

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