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2010年5月

2010年5月25日 (火)

月山スキー場(山形県西川町)

異次元の世界の月山でした。(爆) やれやれ。濃いガスが山全体を覆い、視界不良、何にも見えません。滑ってて怖いくらいででした。(涙) 下界は晴れ間も広がっていたのですが。。。。でも、雪は、大量に、豊富にありました。スキーヤーは、板を外すことなくピストンで滑れます。今年の月山は、7月末のクローズまで余裕で滑れますね。   午前券を買い8時30分~11時30分頃まで滑ってきました。 まあ、修業ですね、「スノーボードの滑りに磨きをかける」には、最高のシチェエーションでした。(笑)  

Cimg6659月山名物は、悪天候と最低の雪質です。(笑) 時折霧雨も降ってきました。 ザラメ、シャーベット状の雪、かなり板に引っかかります。さざなみ状に細かくでこぼこになって少し締まった雪質の斜面もあります。白くはありません。全体的に茶褐色で黒っぽい雪です。かなり滑りは悪いですね。滑りの悪いところを何とかスムーズに滑らせるために、前後の体重移動、微妙なバランスに神経を使います。やれやれ。。。。普通のゲレンデだったら目をつぶってでも滑れるじゃないですかね??(笑)

Cimg6655月山リフトまでは、駐車場からかなりの距離を歩きます。荷物を運んでいる雪上車がとまっていたんで、乗せてもらえるのかなーっと思ったら、やはりダメでした。しかし、ボードだけは運んでやるから とのことでした。良かったです。手ぶらで、快適にリフトまで歩けました。(笑) 

Cimg6661月山リフト下駅。 下の方は少しガスが薄がった。。。下のほうでも豊富に雪があります。スタッフの皆さんが、「雪の道」を必死で作ってくれていますので、6月中旬頃までは、板を外すことなく普通に滑れると思います。今年の月山は、秋になっても滑れるんじゃないですかね?(笑)


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2010年5月18日 (火)

シオーモの小径 Ⅳ

奥州一ノ宮 鹽竈神社。奈良・平安の昔から東北鎮護・陸奥国一ノ宮として国の特別保護を受けてきた古社である。 奥州一ノ宮ということで、東北では最高位、天皇が行幸される際は、最初に参詣ところである。 奈良・平安の昔から現代まで、多くの文人が参詣している。 松尾芭蕉も、1689年の6月に参詣している。めざすは、奥州藤原氏が寄進した「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」であった。 

Cimg6587表参道、奥の方に楼門(随身問)が見える。 芭蕉もこの202段の石段を登り参拝している。 「早朝、塩かまの明神に詣(まう)づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階九仭(きざはしきゅうじん)に重なり、朝日あけの玉がきをかかやかす。。。。」(早朝、塩釜の明神に参詣した。この神社は、藩主が再建なさり、社殿の柱は太く、彩色された垂木はきらびやかで、石の階段がたいそう高く連なっており、朝日が朱塗りの玉垣を輝かしている。) 「おくのほそ道」より

Cimg6575楼門(隋身門)、表参道を登りきったところにそびえたつ、朱塗りの荘厳な門だ。この奥に社殿がある。 現在の社殿は、芭蕉が参拝したときよりも新しい時代のものだ。 しかし、社殿前の一対の「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」は、800年前とほとんど同じ場所にたっている。-------------------

Cimg6576「文治燈篭(ぶんじのとうろう)」と天然記念物の 鹽竈ザクラ。   義経を敬愛していた芭蕉は、義経に仕え、義経とともに戦死した藤原(泉三郎)忠平(藤原秀衡の三男)が寄進した、この燈篭を是非とも見てみたかったのである。。。。#義経と奥州藤原氏の悲劇的な運命に思いをはせたのだろう。。。 『社殿の前に古い立派な燈籠がある。鉄の扉の表面には「文治三年(1187年)和泉三郎寄進」とある。五百年経っても変わらぬ姿が、今目の前に浮かび上がり、何とも珍しい。彼は、勇気と義理と忠孝の士だった。その誉れある名は今日まで伝わり、慕わない者はいない。まことに人はよく道にかなった行いをし、義理を守るべきだ。「名声もそれらに伴うものである」と言われている』 「おくのほそ道」 より

Im100409天然記念物の 鹽竈ザクラ、八重桜の一種。 非常にデリケートな桜で、手入れをしないでほうっておくと直ぐに枯れてしまうとここと。現在は、手厚い保護と保存処置のおかげで、約40本ほどに増えたという。。。「桜切るバカ、梅切らぬバカ」。。。(笑)


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2010年5月15日 (土)

シオーモの小径 Ⅲ

京都府下京区本塩釜町。。。。京都に塩釜の地名があるなんて不思議ですね!(笑)   塩釜の景観をこよなく愛したのは、嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとの とおる)であった。源融は、光源氏のモデルとされ、陸奥の国府多賀城(宮城県多賀城市)に赴任していたとき、塩釜の融ヶ丘とよばれるところに別荘を建て塩釜の風景を愛でたという。 京都に戻った後も、塩釜の景観が忘れられず京都六条(現 下京区本塩釜町)に大庭園(河原院)を造り、千賀の浦(塩釜の浦)にみたてた大きな池には、遠く大阪から運んできた海水をいれ、船を浮かべ、海の魚まで放ち、さらに、なんと、藻塩を焼く釜を多数作らせ、煙まで立ち上らせてたという。。。。#Ⅳに続く。。。。

180pxhyakuninisshu_0141河原左大臣こと源融。   この塩釜の景観を模倣した庭園の話は「宇治拾遺物語」や「伊勢物語」にも登場する。なんと、今も、その一部が六條河原院の庭園として残っているのである。  #う~む、言葉がでない、平安京のディズニー・シーだ!テーマパークだ!(笑) 源融が見た塩釜の原風景を見てみたいですね。瞼を閉じて想像するしかないか。。。(笑)    #「君まさで煙たえにし塩竃の うらさびしくも見え渡るかな」(河原左大臣 源融がお亡くなりになり、塩を焼く煙も絶えてしまった塩釜は、ほんとうにうら寂しく見えてしまうものだ) 紀貫之、古今和歌集より


Cimg6618千賀の浦(塩釜の浦)に浮かぶ籬島(まがきしま)。塩竃神社十四末社の一つであり、籬島明神が祀られている。 有名な歌枕の地であり、平安の時代から多くの和歌に詠まれている。  代表的な和歌を一首、「わがせこを都にやりて 塩竈のまがきの島の松ぞ恋しき」(古今和歌集 東歌)   また、「。。。五月雨の空いささか晴れて、夕月夜かすかに、籬が島もほど近し。。。。」(五月雨の降り続いていた空は少し晴れてきて、夕方の月がかすかにみえ、和歌に詠まれた籬島もほど近くに見える) と松尾芭蕉も「おくのほそ道」に記述している。


Cimg6594銘酒「浦霞」の佐浦酒造。塩釜神社の近くにある。藩主伊達氏の加護もあり、塩釜神社の御神酒酒屋として栄えた。        「浦霞」。。。鎌倉時代の歌人 源実朝の歌 「塩かまの(浦)の松風 (霞)むなり 八十島かけて 春の立つらむ」 金槐和歌集より  (塩釜の浦を吹く風も、霞を含んでいるかのようにやさしく吹きわたる。数多くの島はいっせいに立春を迎えたのであろうか) が酒命の由来である。


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2010年5月13日 (木)

シオーモの小径 Ⅱ

修学旅行で塩釜に着いた賢治は、先生から特別許可をもらい、七ヶ浜町で療養中の伯母を訪ねている。この叔母は、賢治を幼少の頃から可愛がっていて浄土真宗の教えを子守唄代わりに聴かせていたという。賢治にとっては大切な人だったのである。 療養していたのは、七ヶ浜町の菖蒲田浜にあった「大東館」という宿泊施設であった。 漁村の宿泊施設を訪ね歩き、ついに賢治は感動的な再会をはたすのであ。伯母と一緒に食事をし、海岸を散歩し、故郷の話をした賢治。。。。伯母は、この再会の半年後に亡くなったのである。。。。 このときの様子は、父に宛てた手紙に詳しく、感動的に書かれているという。 #Ⅲに続く。。。。。

Cimg6620_2JR仙石線本塩釜駅。立派になりました。(笑) 賢治の時代は、まだ仙石線はなかったのでJR東北本線の塩釜駅から汽車に乗り仙台に向かったことになります。---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 

Cimg6628七ヶ浜町菖蒲田浜の漁港にある「大東館」跡地。小さな岬の突端である。 菖蒲田浜は、全国で3番目に海水浴場が開かれたところである。観光ガイドブックによると、当時の海水浴は「塩湯治」よばれ、療養・保養目的に全国に広まったという。当時、「大東館」は、塩湯治をするための療養(保養)施設で財界人や軍人等の有名人の来館が後を絶たなかったという。#う~む、やっぱり賢治の家族・一族はかなりの富豪だったのですね。。。。(笑)

Cimg6634「大東館」脇の海岸。当時は砂浜だったのでしょうか? 「大東館」、20年くらい前までは現存していたらしい。荒れ果ててボロボロになっていたので撤去されたとのこと。跡地には、説明板もなにもなかった。ゴミが散乱していて荒れ放題!(涙) 貴重な観光資源なのに残念です。整備して説明板、駐車場等を設置すれば、賢治ファンが大挙して押しかけるかもしれないのに。。。(笑)

Cimg6637御殿崎。 菖蒲田浜の直ぐ近くにあります。賢治もこのあたりを散歩したのだろうか。。。? この風光明媚な岬は、平安時代には「松ヶ浦島」とよばれ、歌枕として京の都まで知れ渡っていたとういう。清少納言の「枕の草子」にも登場する。また、江戸時代には、伊達政宗の仮御殿(別荘)があったことから「御殿崎」とよばれるようになったとのこと。

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2010年5月12日 (水)

シオーモの小径(こみち) Ⅰ

賢治は塩釜(宮城県塩釜市)をシオーモといい、仙台をセンダードといった。。。 「そのころわたくしは、モリーオ市の博物局に勤めて居りました。。。。。。。。そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。三十一日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです」 宮沢賢治「ポラーノの広場」より  なんと、この童話には、、イーハトーブはもちろんのことトキーオ市まで登場するのだ!(笑)   #Ⅱに続く。。。。。 

Cimg6607宮沢賢治の文学碑。 賢治は盛岡中学(盛岡一高)の修学旅行で、松島、塩釜、仙台等を訪れている。石巻から船で、松島、塩釜を巡り、汽車で仙台に入っている。このとき初めて海を見たという。。。。(笑)---------------------------------------------------------------------------

Cimg6610シオーモの小径。  塩釜を訪れた、近現代文学者たちの歌碑・文学碑・が建ち並ぶ。 正岡子規、北原白秋、若山牧水、与謝野晶子・寛、田山花袋。。。。--------------------------------------------------------------------------------------------------------------

Cimg6596マリンゲート塩釜。 港町塩釜の海の玄関口だ。松島海岸行きや、島巡り遊覧船の発着場所になっていて、特産品を集めたショップゾーンとレストランゾーンを併設している。展望台もある。 シオーモの小径は、ここの西側にあります。-------------------------------------------------

Cimg6603マリンゲートの展望台から千賀の浦(塩釜湾)を望む。 空はどんよりと重い。小雨が降っている。晴れていれば松島や遠く金崋山まで望めるという。。。。(涙) 

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